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シリーズ
こふきのひろめ - vol.8 -
前号をまだ未読の方は、よければこちらもご一読いただきたい。
- 布教はイヤだ(2026.3)
- こふきのひろめ(2026.4)
- こふきの目的とは(2026.5)
- こふきの救済(2026.6)
- こふきは続く(2026.7)
- 金子みすゞと元の理(2026.8)
- 力あるなら、掘り切りてみよ(2026.9)
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今月は、前回紹介した『ムック天理 Ⅱ 人間誕生』の中にある『元初まりのお話(編述:芹澤茂)』の続きを読み解いていく。
本題に入る前に、今回も一つ前提となる視点を共有しておきたい。
浮かんでくる疑問
「元初まりの話」にふれると、現代を生きる私たちはどうしても様々な疑問を抱いてしまう。
なぜ、どじょうが人間のたねなのか?
たいら一面の泥海なのに、こんな動物がいたのだろうか?
魚や動物にお話をして、どうやって理解させたのか?
こうした疑問が頭をよぎるのは、決して私一人ではないだろう。
現代科学版・人間創造の話(仮)
仮に、現代科学のものさしを用いて、現代人がある程度納得できそうな「人間創造の話」を創作するとしたら、次のようになるかもしれない。
もともと人間はアメーバだった。このアメーバは、細胞分裂によって無性生殖をする単細胞生物なのだが、あるきっかけで突然変異が起きる。
二つの異なる性質を持つ個体、つまりオスとメス、もっと具体的に言い換えれば、雄しべと雌しべ、卵と精子という生殖細胞が合体して新しい個体をつくるようになったのだ。これは有性生殖といって、生物の進化を飛躍的に進めるきっかけとなった。
そもそも、生物はDNAという設計図を持っており、A(アデニン)、T(チミン)、G(グアニン)、C(シトシン)の4種類の塩基からなる化学物質で構成されていて……。
と、あえて小難しく書いてみたが、皆さんはどんな印象を持たれただろうか。
少し意地悪な想像かもしれないが、もし教祖が当時このように語られたら、お側の高弟たちはどのように感じただろうか。
もちろん、なんとか理解しようと努力はされるであろうが、「元初まりの話」を信仰と結びつけることは、おそらく難しかったはずだ。

ある程度科学知識に明るい現代人であっても、頭で理解することはできても、それを「神の物語」として味わうことはできないだろう。ましてや人間創造の核心、つまり「本当の神意」を悟ることなどできそうにない。
子ども自身が「自分がどうやって生まれてきたのか」を知ろうとするなら、親から直接話を聞かないことには分かりようがない。
同様に、我々人間がどのように、そして何のために創られたのかは、人間を創られた元の親である親神様によってこそ明かされるものである。
これからも科学の進歩によって解明されていく事実はたくさんあるだろう。
しかし、科学的なアプローチを突き詰めたとしても、「元の神・実の神」である親神様の思召が真に明らかになることはないはずだ。
隠喩と象徴
教祖が直々に「元初まりの話」をお伝えくださったのは、江戸末期から明治にかけての頃である。
当時、お屋敷に寄り集っていた人々の多くは農民であった。「元初まりの話」は、その人々にとって身近な生き物や概念を用いて語られている。
私たちが先人と同じように「元初まりの話」を味わうための導入として、次のような捉え方ができるのではないだろうか。
一つ目は「隠喩(メタファー)」として捉えることである。
「隠喩」とは、「〜のようだ」という直接的な比較表現ではなく、別の事物や概念に置き換えて暗示的に意味を伝える比喩表現だ。
例えば、「私たちにとって母は太陽だ」といった表現である。
二つ目は「象徴(シンボル)」として捉えることである。
「象徴」とは、抽象的な思想・観念などを、具体的な事物によって理解しやすい形で表すことを指す。
「鳩は平和の象徴だ」といった表現がその典型である。
どちらも抽象的な事柄や、目に見えないものをわかりやすく伝え、捉えるためにある表現方法である。
「元初まりの話」を味わうための一つの入り口として、隠喩や象徴という視点を紹介したが、これは決して「元初まりの話」を単なる神話や作り話にしたいわけでも、科学的証明を諦めたわけでもない。
信じるか、信じないか。
正しいか、間違いか。
そういった次元で語るものではない。
大切なのは、疑うことなく、あくまで素直な気持ちで向き合う姿勢である。
またもや前置きが長くなってしまったが、本題の引用文の続きを紹介したい。

元初まりのお話②(ムック天理Ⅱ)
『元初まりのお話』(芹澤茂 編述)▶ 前回の引用文をひらく
この世の元初まりは泥の海。そのたいら一面泥海の世界に、月様と日様がおいでになるばかりであった。
(この月様と日様は、くにとこたちのみこと、をもたりのみことと申し上げ、人間とこの世界をはじめられた親神様である。)
月日様はいつも、
「泥海の世界にふたりいるばかりでは、神といって敬ってくれるものもなし、なんの楽しみもない。人間というものをこしらえて、その陽気ぐらしをするのを見てともに楽しみたい」
と話し合っておられた。
あるとき月様と日様は、泥海のなかに大龍・大蛇のお姿をしてお現れになった。泥海なかを御覧になると、たくさんのどぢよ(どじょう)ばかりいるなかに、うを(魚)とみ(巳)の泳いでいるのが目にとまった。
(このうをは岐魚ともいい、うろこのない人魚のようで、くじら程もある。みも大きな白い蛇で、太刀魚の体つきである。)
おふたりで、うをとみをよく御覧になるうち、
「このものを雛形として人間をこしらえたらよかろう」
と思いつかれた。それで、うをとみを雛形に、そのほかの道具をつかって人間を創造する模様を相談され、やがて相談がまとまった。
そこでまず、うをとみとを呼び寄せられた。うをとみはお召しによって、月日様のもとへ真っ直ぐにやってきた。月日様がよくよく御覧になると、顔といい肌合いといい、つくろうと思う人間にふさわしく、また心根もともに一すじ心で、月日様のお心にかなっていた。月日様は人間創造の思召しをお話しになって、
「おまえたちを人間の雛形にしたいと思う。ここにいるたくさんのどぢよをたねとして、ほかに道具も寄せてやるから、ひとつ、種・苗代として働いてくれないか」
とお話になった。うをもみも一度はお断り申し上げたのであるが、月日様が重ねて、
「人間世界ができあがって、初めて生まれる子数(子供の数)の年限が経ったなら、親として敬われるようにしてやろう」
とお約束になったので、やっと承知をした。そこで、人間の種・苗代としてもらい受けられた。

解説(元初まりのお話)
◆ どぢよ(どじょう・泥鰌)
戦後まで、農村でもっとも親しみのある魚であった。どこの小川にも、田の溝にもいたのが、どじょうである。
泥にまみれ、泥川の中に住んでも、洗えば清らかなもので、体の中までは泥に汚れていない。泥にいて、泥に汚れぬ清らかさがどじょうにはあるのだ。
泥海の中にわき出るがごとく、無数に泳ぎ回るどじょう。月日親神は、これを人間のたねとされた。

◆ うを
こふき本ではそれぞれ、ぎぎょ(岐魚)、げいぎょふ(鯢魚)などと表現され、統一されていない。
こふき本の一つ「山田本」にはこう記されている。
このうをハにんげんのかおで うろこなし。からだハ人間のはだやいで、それゆへに 人ぎうとゆふ。また ぎふげふともゆふ。
このうをのかたの処に ゑらがあり、 此うをハ、よこいもよらすあといも もどらすに、ただむこい/\と いくと斗り。
『山田伊八郎文書』 35頁
先日私が参加した勉強会では、鯢魚とはサンショウウオではないかという説も聞いた。
ともかく、当時の人たちに想定されていた「うを」は、魚の体でありながら人間の顔に似て、鱗を持たない人魚とも呼ばれている動物であった。
そして、横へ曲がったり後ろへ戻ろうとせず、ただ前へ前へと泳ぐ習性をもつという姿であった。

◆ み
こふき本ではそれぞれ、み・みい(巳)、白ジヤ(白蛇)、白くつな・しろぐつな、などと表現されている。
こふき本の一つ、「桝井本」にはこう記されている。
みすませば、みいとゆうしろぐつなかいる。
このものも、いま人げんのはだにて、うろこなし。
『こふきの研究』 109頁
先日参加した勉強会では、白蛇は「みずへび」であり、生物学的にいえば「ヤツメウナギ」と考えられるのではないか、という興味深い説も耳にした。
ヤツメウナギは、一見するとウナギに似ているが根本的に異なる動物で、「狭義の魚類」からも外れる非常に原始的な脊椎動物である。その肌は人間に似てすべすべしている。
とはいえ、単に「白い蛇」として想定されていた可能性も十分にあるだろう。


◆ 一すじ心(ひとすじ・一すぢ・ひとすぢごゝろ)
いちずな心、ただ一つのことに心を傾けるさま。「月日様のもとへ真っ直ぐにやってきた」という姿から考えると、神一条の精神ともいえるだろう。
六ッ むりなねがひはしてくれな
ひとすぢごゝろになりてこい
七ッ なんでもこれからひとすぢに
かみにもたれてゆきまする
みかぐらうた 三下り目
◆ 種・苗代
田植えの前に稲の種籾(たねもみ)をまいて、苗を育てるための小さな田んぼや場所のこと。
種 = 男性的機能および性質
苗代 = 女性的機能および性質

おふでさき
このもとハどろうみなかにうをとみと
それひきだしてふう/\はちめたこのよふの元はじまりハとろのうみ
そのなかよりもどぢよばかりやそのうちにうをとみいとがまちりいる
よくみすませばにんけんのかをそれをみてをもいついたハしんぢつの
おふでさき 第六号32〜35
月日の心ばかりなるそや
[ 大意(おふでさき註釈より) ]
その元はと言えば、泥海の中に、うをとみとがいた。それを引き出し夫婦を始めたのである。
そもそもこの世の元初まりは泥の海で、その中にどじょうばかりが泳いでいた。その中にうをとみとが混じっていて、よく見澄ませば人間の顔をしている。
それを見て思いついたのは月日の心ばかりである。
即ち、月日の思うには、「このものに、道具を寄せてだんだんと親神が守護を教えた事ならば、さぞ立派な人間が出来よう。」と。
今回は、教祖御在世当時の先人たちが理解しやすい表現で語られた「元初まりの話」を、「隠喩・象徴」という視点をもって味わうということを述べた。
今回の解説は、ここまでとしたい。
立教189年10月1日
天理教繁藤大教会長
坂 本 輝 男

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