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シリーズ
こふきのひろめ - vol.3 -
前号をまだ未読の方は、よければこちらもご一読いただきたい。
§ § § § § § § § § § §
前回の巻頭言において、私は、
「ワクワクした気持ちで『こふき』を掘り下げていきたい」
と述べた。
しかし、その営みには大きな矛盾が存在する。それは『こふき』の最大の特性ともいえるものだ。
今回は、この矛盾について思案を深めていきたい。
プロセスはいらない。早く答えがほしい?
これは、タイムパフォーマンスを重視する現代社会における、切実な欲求の一つだろう。
古今を問わず、人生における選択肢の多さは時に迷いを生み、それが必ずしも幸せには直結するとは限らない。
「誰かに早く正解を提示してもらって安心したい…」
と願うのは、自然な心理だ。
昨今のAIの台頭が、その傾向に拍車をかけている。自分で考えずとも、AIに問いを投げれば、より速く、より正確(に見える)回答が得られる。何より「楽ちん」だ。
しかし、答えや結果を即座に得ることには、弊害も伴う。
映画を観る前に、結末を暴露される。
悩みを相談したら途中で正論をつきつけられる。
知らない間にジグソーパズルを完成させられる。
これらは誰もが経験のある「興醒め」ではないだろうか。
どうやら物事には、決して飛ばしてはいけない「プロセス」があるようだ。

「やってあげる」の弊害
私は現在、三児の父である。
子どもが困っている姿を見れば、つい手を差し伸べたくなるのが親心というものだ。だが建前は置いといて、場合によって、
「(親として)こちらがやってあげた方が楽だ…」
というのも正直ある。子どもの「なんで?」に真正面から向き合うには、相応のエネルギーと時間が必要だからだ。
しかし、親が先回りして答えを与え続け、子どもが受動的な状態に慣れてしまうことの悪影響は、想像に難しくない。
主体性、自律性、そして失敗を乗り越える粘り強さ…。挑戦や試行錯誤の機会を奪うことは、それらの成長の芽を摘むことに他ならない。
これは教育や育成の全般にいえることだろう。悩み、苦しみ、悔しさを乗り越えて自ら掴み取ったものこそが、真に自身の血肉となるのだ。
宗教は「思考停止」を招くのか
翻って、宗教について考えてみる。宗教における「答え」とは、いわゆる「教義(教え)」である。
その確定した答えがあるがゆえに、「宗教は思考停止であり、盲目的だ」とマイナスの印象を抱く人もいる。
言われたことを信じなければならない…
教え通りに生きなければならない…
といった抑制的なイメージだろう。しかし信仰の本質は、既成の答えをなぞることだけではないと私は考える。
もちろん、教義を恣意的[※1]に曲解してはならない。だが、真の信仰とは教義をあたかも「不可侵なもの」[※2]として扱うことではなく、もっとダイナミズム[※3]あふれる営みではないだろうか。
教義を手がかりとして、「自分」「神」「救済」「社会」、そして「真理」と双方向に向き合い続ける。それは思考停止どころか、あくなき探求心と精神的な力強さを要するプロセスなのである。
[※1]恣意的
明確な基準や合理的な理由ではなく、個人の都合や主観に基づいて判断・行動すること。
[※2]不可侵
決して侵すことができないこと。触れてはならないこ。
[※3]ダイナミズム
物事が持つ力強さ、エネルギー、あるいは動的な変化や構造

『こふき』のはじまり
さて、いつもながら前置きだけで紙幅が埋まりそうなので本題に入ろう。
天理教には三つの原典が存在する。
教祖が自ら筆を執って記された、書き物である『おふでさき』
おつとめの地歌として、教えられた『みかぐらうた』
教祖ならびに本席様による口述の教えを筆録した『おさしづ』
これらは固まった「テキスト(言葉)」として現代に残されており、解釈の余地はあっても、書き換える(編集する)余地はない。
しかし、『こふき』は性質が異なる。天理教事典ではこう説明されている。
明治13、14年頃から教祖は、折をみて、「取次」と呼ばれた側近の人々に対して、あるまとまったお話を聞かされた。このお話が今日「こふき話」と言われるものである。
明治14年の頃、教祖は、側近の人々に「こふきを作れ」[※A]、「こふき話を書いて出せといわれた」[※B]のである。
天理教事典より
教祖から提示されたものを、あえて人間に「作れ」と促す。これこそが『こふき』の最も大きな特性の一つだと私は思う。
[※A]『稿本天理教教祖伝』157頁
[※B]高井猶吉談、『ひとことはなし その三』61頁
「こふきを作れ」の目的
現存する「こふき話」の内容には今回触れないが、これらは作成した者によって文章形態も大きく異なり、ニュアンスをはじめ内容にも違いがある。神様ではなく、人間につくらせたという証拠ともいえよう。
そして、『こふき』をあえて人間につくらせた目的は何か。これは前回紹介した「こふきの研究」において、二代真柱様はこう述べられている。
『こふき』の目指されている目的ともいうべき廉を窺ってみますと、『こふき』の内容を、單に發表されているばかりではなく、「取次」養成を意圖されているのであります。
「こふきの研究」 中山正善 著
同様に、『おふでさき』でもこうお示しくださっている。
しんぢつにこの元さいかしいかりと しりたるならばどこいいたとて
おふでさき(十号48)
【おふでさき 十号48 註釈】
真に親神のこの世人間創造の真実が心に治まりさえしたならば、どこへ行っても、おめ恐れも無く安心なものである。
このはなしなんとをもふてきいている これとりつぎにしこみたいのや
おふでさき(十号49)
【おふでさき 十号49 註釈】
この話を何と思うて聴いているか、これを取次の者達に、しっかり仕込みたいからである。
最初から完成品を与えるのではなく、人間に考えさせ、やらせてみせる。
そこには、人間を成人させようという親神様の深い教育的意図がある。

やはり『こふき』はワクワクしながら
冒頭に「プロセスを飛ばしてはいけない」と書いた。
先日、我が子が遠足に行ったのだが、一番ワクワクしていたのは前日の準備中だった。
遠足先の風景を事前に動画で見せたり、時短のために車で送迎したりするのは、あまりにも野暮というものだろう。
にち/\に神のはなしをたん/\と きいてたのしめこふきなるぞや(三号149)
【おふでさき 三号149 註釈】
日々にこの真実な親神の話を聴いて喜べ、この話こそいついつまでも変わる事なく、永久に世界たすけの教えとして伝わるべきものである。
旅行も、勉強も、そして信仰も、そのプロセスを楽しむ気構えの中にこそ「値打ち」がある。
親神様は取次、私たちを育てるために、そして私たちが信仰のプロセスを楽しむために、あえて「余白」を残されたのではないだろうか。
そう考えると、その親心は果てしなく深く、温かいと感じるのは私だけではないはずだ。
次回は、ようやく『こふき』の内容に入っていく予定なので、楽しみにお待ちいただきたい。
何をひろめるか?
前回の巻頭言で〝ひろめ一条〟について触れた。予告通り、今回は「何をひろめるのか?」について考えていきたい。
最初に結論を述べたい。我々ようぼくが世界にひろめていくものはこふき(こうき)である、と私は考える。
こふきというキーワードに着目したのは、教祖140年祭後は〝ひろめ一条〟を繁藤の活動方針の軸としていきたいと考えだしてからである。
しかし、これこそが最近の言葉でいうと〝沼〟であった。要するに、没入して抜け出せないほど奥が深いものだったのだ。
こふきの漢字
こふきに向き合うにあたって、まずもって大きな道標となるのは、二代真柱様が書かれた「こふきの研究」という書籍である。
冒頭、こふきという言葉にはどんな漢字をあてるのが相応しいかについて触れられている。
まず教祖御在世当時、お傍の高弟 [ ※1 ] が記されたものには〝古記〟の漢字があてられていた。
いわゆる〝泥海古記〟である。これは〝此世の元初まりのお話〟、つまり神様がこの世界や人間を創られた起源の話で主であった。
日本国でいえば古事記の神話。キリスト教でいえば、聖書に記されているアダムとエバ(イブ)の創世記である。そして、古記の他にも光輝、功記、後記という文字をあてられた例も見受けられるという。
このことを踏まえて二代真柱様は、
(教祖が)親しく誌されたおふでさきに対して、口授して書き取らしめられた〝記〟を〝こふき〟と呼ばれたものであり、強いて字を當てれば、〝口記〟の方が寧ろ、本来の意味を寫す文字ではないかと考えるのであります。
こうきの研究(中山正善 著)
と述べられた。
※1 高弟
弟子の中で、特にすぐれている者。

一旦、固定観念を捨てよう
こふきという言葉にふれたとき、ほとんどの方が連想するのは、〝泥海古記〟、つまり〝元初まりの話〟、そして〝元の理〟であろう。
天理教教典の第三章にある、「この世の元初りは、どろ海であった・・・」で始まる内容だ。
ただ、このたび私が皆さんに望むのは、その固定観念やイメージは一旦捨ててほしいということである。
〝古記〟の文字にとらわれると本来のこふきの全貌、神意をつかむことの妨げになってしまう恐れがあると考えるからだ。
つまり、こふきとは〝元初まりの話〟や〝元の理〟だけに留まる内容ではないのである。

今後、皆さんとこふきについて思案を深めていくにあたり、まっさらな気持ちで、あえてこの平仮名のこふきに向き合っていきたい。
その上で、「こふきとは何か?」を私なりに一言でいうと、
「教祖が主に口で伝えられたことを、お傍の高弟が受けとめ、書き記したもの」
である。
まずはこふきにふれる初回に、かく仮定したい。
無知の知
ところで、私事になるが、教会長になって今年の2月で丸4年が経った。
まだまだ未熟者ではあるが、天理教の教理について、多少は頭で分かっているつもりでいた。
しかし近頃、こふきに関する書物を何冊も繰り返し読んでいる中で、徐々に心に浮かんできたことがある。
「ああ、自分は何も分かっていなかったのかもしれない」
ということだ。まさにソクラテスの〝無知の知〟の出発点に立った、そんな気持ちである。
おふでさきを読むと、こふきはこの世の〝もと(根源・根本)〟あるいは〝しんぢつ(真実)〟とも言い換えられる。
その〝もと・しんぢつ〟を知り、深め、掴んでいくことは人生をかけて取り組むほどのものだと気づいた。
回を重ねてこふきをテーマに思うところを記していく予定だが、簡単にまとめることはとてもできそうにない。1年どころか、5年、10年、いやもっとかかるかもしれない。
教祖140年祭を終え、こふきを深く掘り下げていきたいと思った今の起点を、大げさではあるが私の中での「こふき元年」としたい。

ワクワクした気持ちで
ここで一点、ことわっておきたい。
このたび、こふきを深堀りしていく決心をしたわけだが、決して学術的に論じていきたいわけではない。
そもそも〝元初まりの話〟や〝元の理〟などは理解しがたい、もしくはとっつきにくいと感じる方が少なくないだろう。
そこで前提をいくつか挙げておきたい。
まず、あくまで私の第一の目的は、皆さんと共にこふきをひろめていくことだ。
だからこそ、念頭に置きたいのは、興味深く、かつ分かりやすさを心掛けたいということである。
むずかしいことをやさしく、
やさしいことをふかく、
ふかいことをおもしろく、
おもしろいことをまじめに、
まじめなことをゆかいに、
そしてゆかいなことはあくまでゆかいに。
これは以前紹介した、ひょっこりひょうたん島を代表作とする作家の井上ひさし氏の名言だ。
これが私のモットーである。
もちろん、できうる限り原典はもちろん、史実や文献等の根拠に基づいていく姿勢はしっかりと持ちたい。
その上で批判を恐れずに、理の思案や悟りを私らしく大胆に展開していきたいと考えている。
そして、このこふきという分野については、教義が明確に固まっていない側面が多々ある。
だからこそ、いろいろな捉え方ができるし、議論の余地が大いに残されている。
私への異論反論は真摯に受け止めていきたい、というか大歓迎である。
ぜひ皆さんのご意見、コメントをお待ちしている。

結びに
最後におふでさきを一首紹介して、今回の締めくくりとしたい。
このねへをしんぢつほりた事ならば
ま事たのもしみちになるのに
おふでさき 5号66
[おふでさき註釈]
もしこの根本の真実を真に悟った事ならば、まことに頼もしい道になるものを。
〝ひろめ一条〟を掲げるといっても、布教というイメージから連想しがちな、「〜しなければ」ということを皆さんに押し付けるつもりはない。
また、私自身もそのような気持ちで歩んでいくことは極力したくない。
先述のおふでさきの通り、この世界・人間の〝もと・しんぢつ〟、つまりこふきを掘り下げていった先に、陽気ぐらしという頼もしい道が待っているんだ。
そんなワクワクした気持ちを皆さんと共有しながら、希望を持ってこの道を求めていきたい。
立教189年4月1日
天理教繁藤大教会長
坂 本 輝 男
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