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シリーズ
こふきのひろめ - vol.7 -
前号をまだ未読の方は、よければこちらもご一読いただきたい。
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明治14年から20年にかけて教祖の高弟たちが残した書き物は、いわゆる「こふき話(本)」と呼ばれている。そして、それらの中心ともいえる内容が「元初まりの話」である。
今回は、ようやく「こふき」における「元初まりの話」の内容に入っていく。
確かなる拠りどころ
本題に入る前に、大切なことを一点おさえておきたい。
以前の巻頭言で、「こふきを作れ」との教祖のお言葉には、取次人の養成という教育的意図があり、あえて人間に作らせることによって「余白」を残されたのではないか、と述べた。
しかし当然ながら、作り手によって内容や表現方法などにそれぞれ違いがある。中には、表現内容が一部食い違っている部分さえある。
そして何より、教祖がよいと認められたものは一つもない。
では、何が典拠、つまり確かな拠りどころであるのか。
それは、教祖が直々に筆をとられた「おふでさき」である。
今後、「こふき話(本)」をはじめ、様々な資料を提示することになると思うが、まずもって間違いのない拠りどころは「おふでさき」である、ということをしっかりとおさえておきたい。
加えて、天理教教会本部より出されている『天理教教典』の「第三章・元の理」が、それに次ぐ拠りどころとなるだろう。


親しみやすい説話
この連載で何度も紹介している書籍『こふきの研究』において二代真柱様は、元初まりの話を「説話」という言葉で表現されている。
説話とは、実際にあったことや不思議な出来事として、口承(口から口へ)で伝えられてきた神話、伝説、昔話などを意味する。
本来、「元初まりの話」の解説を進めるならば、教典の「第三章・元の理」をベースに進めていくのが定石だと分かってはいる。
しかし何度も言うようだが、このたびの連載における私の目的は、皆さんと一緒に「こふき」を味わうことである。
そこで、このたび題材にするのは1978年に道友社から刊行された書籍『ムック天理 Ⅱ 人間誕生』の中にある「元初まりのお話」である。天理大学の教授であった故・芹澤茂先生による編述だ。
「説話」として、非常に親しみやすい内容であるこの文章を引用しながら、このたびの解説を進めていこうと思う。

元初まりのお話(ムック天理 Ⅱ より)
この世の元初まりは泥の海。そのたいら一面泥海の世界に、月様と日様がおいでになるばかりであった。
(この月様と日様は、くにとこたちのみこと、をもたりのみことと申し上げ、人間とこの世界をはじめられた親神様である。)
月日様はいつも、
「泥海の世界にふたりいるばかりでは、神といって敬ってくれるものもなし、なんの楽しみもない。人間というものをこしらえて、その陽気ぐらしをするのを見てともに楽しみたい」
と話し合っておられた。[ ※1 ]
あるとき月様と日様は、泥海のなかに大龍・大蛇のお姿をしてお現れになった。泥海なかを御覧になると、たくさんのどぢよ(どじょう)ばかりいるなかに、うを(魚)とみ(巳)の泳いでいるのが目にとまった。[ ※2]
(このうをは岐魚ともいい、うろこのない人魚のようで、くじら程もある。みも大きな白い蛇で、太刀魚の体つきである。)
おふたりで、うをとみをよく御覧になるうち、
「このものを雛形として人間をこしらえたらよかろう」
と思いつかれた。それで、うをとみを雛形に、そのほかの道具をつかって人間を創造する模様を相談され、やがて相談がまとまった。[ ※3]
「元初まりのお話」(芹澤茂 編述)

解説(元初まりのお話)
すべてを解説するには紙幅が足りないので、私が感じたポイントをいくつかに絞って列挙してみる。
[ ※1]
月様と日様、つまり親神様が人間とこの世界を創造される目的が簡潔に示されている。私が感じる1つ目のポイントは、(神と人間が) “ともに” 楽しみたいという点である。
ちなみに、ここでは陽気ぐらしと表現されているが、和歌体十四年本(山澤本)などのこふき本には「陽気遊山」と記されている。
[ ※2]
親神様が人間やこの世界を創造、設計されるにあたり、「月様・日様」、「うを・み」、「天と地」など、対になっているものが常に出てくる。
私が感じる2つ目のポイントは、これらの相反する二つのものが、対立するのではなく、シンクロ(同調)しながら、創造がなされていくということである。
この概念を天の理では「二つ一つ」と教えられる。今後の続きにおいても、この概念は重要になってくる。
[ ※3]
まず、月様が日様に相談される。そして、月日様は「うを・み」に相談をされ、説得の上、承知させておられる(『こふきの研究』p.110 参考)。今後に続く元初まりの話における、人間の道具を引き寄せられる場合も然りである。
私が感じる3つ目のポイントは、月日親神様のその姿勢と態度である。
一言で「神」というと、特に他宗教などでは畏怖の対象や、絶対的な存在といった印象を抱く人もいるだろう。
しかし、この元初まりの話から感じるのは、押し付けや独りよがりといった自己中心的な姿勢ではなく、尊重、協調、親和といった態度であるということだ。これは「おふでさき」からも同じ印象を受ける。また、天理教の立教、すなわち教祖が月日のやしろとなられる際の経緯においても、月日親神様には同じ態度がうかがえる。
ことに、人間創造の営みにおいて、常に談じ合い、互いに承知を得るまで相談をされているという姿勢・態度がそこにあるということは、今を生きる私たち人間にとっても、これこそがあるべき理想の姿ともいえるのではないだろうか。

おふでさきより
このよふわどろうみなかの事なるし
なかに月日がいたるまでなり
月日よりしんぢつをもいついたるわ
なんとせかいをはじめかけたら
ないせかいはぢめかけるハむつかしい
なんとどふぐをみたすもよふを
みすませばなかにどぢよもうをみいも
ほかなるものもみへてあるなり
そのものをみなひきよせてたんぢやい
にんけんしゆごはぢめかけたら
ないせかいはじめよふとてこの月日
たん/\心つくしたるゆへ
(おふでさき 第六号80〜85)
おふでさき註釈(第六号80〜85)
この世の元初まりは泥の海であって、中に月日両神がいたばかりである。その時月日両神の思い付いたのは、
「我々両神だけでは何の楽しみもない。なんと、人間世界を創めようではないか。」
という事である。
ところで、ない世界を創めるというのはなかなかむつかしい仕事である。何とかして世界人間創造のために使う道具を見つけようと思って、その泥海の中をじいっと見澄ますと、その中に、どじょうもうをもみもその他の道具も見えて来た。
そこで、皆引き寄せて相談して、いよいよ人間創造に着手する事となった。このように、無い人間無い世界を創造しようとて、親神がだんだんと心を尽したならばこそ、人間が出来て来たのである。

結びに
今回の解説は、元初まりの話のさわりだけであったが、本当の意味で深掘りしていくには、この巻頭言ではとても紙幅が足りなさそうだ。
「本当の意味で」というのは、前回述べたように、この元初まりの話は、説話という枠を超えて、人間の身体のご守護、森羅万象の営み、過去現在未来、教祖ひながた、おつとめなど、すべての事柄につながっているからである。
最近、この「もと」を深掘りしていくことは、人生をかけて取り組むに値すると感じている。
このよふのもとはじまりのねをほらそ
ちからあるならほりきりてみよ
(おふでさき 第五号85)
おふでさき註釈(第五号85)
この世の元初まりの根本を了解させよう。力の限りやってみるがよい。
―― 力あるなら、掘り切りてみよ。
ある意味で親神様・教祖からの挑戦状と言ったら言い過ぎかもしれないが、私たちに与えられたこの宿題をじっくり味わいながら取り組んでいきたい。
やっと本題に入ったと思ったら、こんなゆっくりとしたペースかと思った方もいるだろう。前回も述べたが、どうか気長に今後もお付き合いいただきたい。
立教189年9月1日
天理教繁藤大教会長
坂 本 輝 男

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