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シリーズ
こふきのひろめ - vol.5 -
前号をまだ未読の方は、よければこちらもご一読いただきたい。
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AIの進化と「人間の尊厳」
AIの急速な進化は様々な分野において、良くも悪くも大きな影響を及ぼしている。
その一つが教育の世界だ。
今のところ、AIが得意なのは文章、画像、音声、動画などの生成である。
これらの分野において、すでに人間よりも速く、正確に、そして疲れて休むことなどなく着実に任務を遂行してくれる。
AIが流行りだした2〜3年前、こんなニュースが物議を醸した。
宿題や課題レポート作成において、多くの学生がこっそりAIを使っているという問題だ。「宿題やっといて」とか「これ調べといて」などのお願いは、AIにとってお手の物である。
もちろん教員も黙っていないが、AIの進化は止められるものではない。
学生が提出するレポートが人間自身の執筆によるものか?
それともAIによって生成されたものか?
そして、これらを見極めるために、教員はAIに判別を頼む―――
そんな笑い話のような、いや大真面目なイタチごっこが、実際に今でも繰り広げられているのだ。
教育現場の苦労を軽視するつもりは全くないが、教育や育成に留まらず、人間の尊厳が本質的に問われる現実に直面していることは確かだろう。

もう一つの「こふき」の特性
さて、前置きが長くなったが、今月も「こふき」シリーズの続きだ。
今回のキーワードは「実感」である。
前回述べた通り、明治14年の頃、教祖は側近の人々に「こふきを作れ」とご指示された。教祖自ら答えを提示するのではなく、あえて人間に作らせたという点が「こふき」の大きな特性だ。
そこには取次人の養成という教育的意図があった。
冒頭の話ではないが、課題を出した場合、セットになるのが添削や評価である。
高弟たちが作ったどの「こふき話(本)」においても教祖は、「それでよい」とはおっしゃらなかった。これが「こふき」のもう一つの大きな特性である。
つまり「こふき」に未だ完璧なものはなく、言うなれば未完成なものともいえるだろう。

神の話を「味わう」
ここで「こふき」という単語が入っている「おふでさき」を二つ紹介したい。
このたすけいまばかりとハをもうなよ これまつたいのこふきなるぞや
おふでさき 第二号10
解釈
このたすけは、現在ばかりだと思うてはならない。これは末代までの雛形手本となって永遠に救済の実をあげるのである。
にち/\に神のはなしをたん/\と きいてたのしめこふきなるぞや
おふでさき 第三号149
解釈
日々にこの真実な親神の話を聴いて喜べ、この話こそいついつまでも変わる事のなく、永久に世界たすけの教えとして伝わるべきものである。
おふでさきは、教祖ご在世中の事柄に留まらず、現代を生きる我々に対するメッセージでもある。
そして、たすけの理話である「こふき」となり得るためには、「神の話」を繰り返し聞いて楽しむという「実感」がなくてはならないものだと考えられる。
楽しむという行為を別の言葉に置き換えるならば「味わう」となる。
つまり、ただ「神の話」を聞くだけではなく、自分ごととして受け取り、実際に身に行い、自身の血肉として腹に治めることだ。
そうして「神の話」を味わい、悟り得た境地、見えてきた御守護こそが「末代のこふき」となっていくのではないだろうか。

AIには生み出せない「生きた言葉」
二代真柱様は、教祖が「こふきを作れ」とおっしゃったのは、「取次たるものの心得台本を作れ」という意味に転じているかの如く思われる、と述べられている。
心得とは、物事を行うにあたって「常に心がけておくべきこと」である。
そして、台本とは固まったセリフという意味ではなく、言葉として口に出てくるその土台、つまり「根本・基盤」を指すのではないだろうか。
なぜならば、AIの話ではないが、固定された「言葉」をただ口にするだけでは、本当の教育や育成は成り立たないからだ。
そう考えると、教祖が「それでよい」とおっしゃらなかった本意には、揺るがしようのない完璧な「こふき」を完成させるという意図はそもそもなかったのではないかという結論に行き着く。
繰り返しになるが、あえて人間に「こふき」を作らせた核心がまさにここにある。
借りてきた言葉では、本当の意味で相手の胸に届かない。
神の話を味わうという営みがあって初めて、神と人が協働してたすけをしていくことができる。
AIには生み出せない、躍動感のある生きた言葉がそこにあるはずだ。

今を生きる我々に、教祖が期待されていること
最後に、さきほど「おふでさき」を二つ紹介したが、あらためてこれは今を生きる我々へのメッセージでもある。
加えて、教祖は今もご存命で私たちをお導きくださっている。そして私たちは教祖の道具衆であり、言い換えれば弟子とも言える。
今から140年以上前に、教祖はお側の弟子に「こふきを作れ」とおっしゃった。これは当時の先人先生にだけに向けられたお言葉なのか。
否、こふきが完成されていないということは、まさに私やあなたにもご存命の教祖は「こふきを作れ」と期待されているのではないだろうか。
もちろん我々が「こふきを作る」ということは、原典を心に治め、残されている「こふき話(本)」を味わい、理を悟り、さらなる磨きをかけていくということだ。
今回の巻頭言で言いたかった結論を一言でまとめると、この今も「こふきを作る」営みの途上にあるということだ。
そして、そこには唯一、人間に自由に使えるものとして与えられた心、つまり実感が何よりの肝になってくるのである。
立教189年7月1日
天理教繁藤大教会長
坂 本 輝 男

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