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宗教は思考停止なのか(繁藤月報-巻頭言 2026.5)


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シリーズ

こふき・・・のひろめ - vol.3 -

前号をまだ未読の方は、よければこちらもご一読いただきたい。

  1. 布教はイヤだ(2026.3)
  2. こふきのひろめ(2026.4)

§ § § § § § § § § § §

前回の巻頭言において、私は、

ワクワクした気持ちで『こふき』を掘り下げていきたい

と述べた。

しかし、その営みには大きな矛盾が存在する。それは『こふき』の最大の特性ともいえるものだ。

今回は、この矛盾について思案を深めていきたい。

プロセスはいらない。早く答えがほしい?

これは、タイムパフォーマンスを重視する現代社会における、切実な欲求の一つだろう。

古今ここんを問わず、人生における選択肢の多さは時に迷いを生み、それが必ずしも幸せには直結するとは限らない。

誰かに早く正解を提示してもらって安心したい…

と願うのは、自然な心理だ。

昨今のAIの台頭が、その傾向に拍車をかけている。自分で考えずとも、AIに問いを投げれば、より速く、より正確(に見える)回答が得られる。何より「楽ちん」だ。

しかし、答えや結果を即座に得ることには、弊害へいがいも伴う。

映画を観る前に、結末を暴露される。

悩みを相談したら途中で正論をつきつけられる。

知らない間にジグソーパズルを完成させられる。

これらは誰もが経験のある「興醒きょうざめ」ではないだろうか。

どうやら物事には、決して飛ばしてはいけない「プロセス」があるようだ。

「やってあげる」の弊害へいがい

私は現在、三児の父である。

子どもが困っている姿を見れば、つい手を差し伸べたくなるのが親心というものだ。だが建前は置いといて、場合によって、

(親として)こちらがやってあげた方が楽だ…

というのも正直ある。子どもの「なんで?」に真正面から向き合うには、相応のエネルギーと時間が必要だからだ。

しかし、親が先回りして答えを与え続け、子どもが受動的じゅどうてきな状態に慣れてしまうことの悪影響は、想像に難しくない。

主体性、自律性、そして失敗を乗り越える粘り強さ…。挑戦や試行錯誤の機会を奪うことは、それらの成長の芽をむことに他ならない。

これは教育や育成の全般にいえることだろう。悩み、苦しみ、悔しさを乗り越えて自ら掴み取ったものこそが、真に自身の血肉ちにくとなるのだ。

宗教は「思考停止」を招くのか

ひるがえって、宗教について考えてみる。宗教における「答え」とは、いわゆる「教義(教え)」である。

その確定した答えがあるがゆえに、「宗教は思考停止であり、盲目的もうもくてきだ」とマイナスの印象を抱く人もいる。

言われたことを信じなければならない…

教え通りに生きなければならない…

といった抑制的なイメージだろう。しかし信仰の本質は、既成きせいの答えをなぞることだけではないと私は考える。

もちろん、教義を恣意的しいてき[※1]に曲解きょっかいしてはならない。だが、真の信仰とは教義をあたかも不可侵ふかしんなもの」[※2]として扱うことではなく、もっとダイナミズム[※3]あふれる営みではないだろうか。

教義を手がかりとして、「自分」「神」「救済」「社会」、そして「真理」と双方向に向き合い続ける。それは思考停止どころか、あくなき探求心と精神的な力強さを要するプロセスなのである。

[※1]恣意的

明確な基準や合理的な理由ではなく、個人の都合や主観に基づいて判断・行動すること。

[※2]不可侵

決して侵すことができないこと。触れてはならないこ。

[※3]ダイナミズム

物事が持つ力強さ、エネルギー、あるいは動的な変化や構造

『こふき』のはじまり

さて、いつもながら前置きだけで紙幅しふくが埋まりそうなので本題に入ろう。

天理教には三つの原典が存在する。

教祖が自ら筆をって記された、書き物である『おふでさき』


おつとめの地歌として、教えられた『みかぐらうた』


教祖ならびに本席様による口述の教えを筆録した『おさしづ』

これらは固まった「テキスト(言葉)」として現代に残されており、解釈の余地はあっても、書き換える(編集する)余地はない。

しかし、『こふき』は性質が異なる。天理教事典ではこう説明されている。

明治13、14年頃から教祖は、折をみて、取次とりつぎと呼ばれた側近の人々に対して、あるまとまったお話を聞かされた。このお話が今日「こふき話」と言われるものである。

明治14年の頃、教祖は、側近の人々に「こふきを作れ」[※A]、「こふき話を書いて出せといわれた」[※B]のである。

天理教事典より

教祖から提示されたものを、あえて人間に「作れ」と促す。これこそが『こふき』の最も大きな特性の一つだと私は思う。

[※A] 『稿本天理教教祖伝』 157頁

[※B] 高井猶吉談、『ひとことはなし その三』 61頁

「こふきを作れ」の目的

現存する「こふき話」の内容には今回触れないが、これらは作成した者によって文章形態も大きく異なり、ニュアンスをはじめ内容にも違いがある。神様ではなく、人間につくらせたという証拠ともいえよう。

そして、『こふき』をあえて人間につくらせた目的は何か。これは前回紹介した「こふきの研究」において、二代真柱様はこう述べられている。

『こふき』の目指されている目的ともいうべきかどうかがってみますと、『こふき』の内容を、たん發表はっぴょうされているばかりではなく、「取次」養成を意圖いとされているのであります。

「こふきの研究」 中山正善 著

同様に、『おふでさき』でもこうお示しくださっている。

しんぢつにこの元さいかしいかりと

しりたるならばどこいいたとて

おふでさき(十号48)
【おふでさき 十号48 註釈】
真に親神のこの世人間創造の真実が心に治まりさえしたならば、どこへ行っても、おめ恐れも無く安心なものである。

このはなしなんとをもふてきいている

これとりつぎにしこみたいのや

おふでさき(十号49)
【おふでさき 十号49 註釈】
この話を何と思うて聴いているか、これを取次の者達に、しっかり仕込みたいからである。

最初から完成品を与えるのではなく、人間に考えさせ、やらせてみせる。

そこには、人間を成人させようという親神様の深い教育的意図がある。

やはり『こふき』はワクワクしながら

冒頭に「プロセスを飛ばしてはいけない」と書いた。

先日、我が子が遠足に行ったのだが、一番ワクワクしていたのは前日の準備中だった。

遠足先の風景を事前に動画で見せたり、時短のために車で送迎したりするのは、あまりにも野暮やぼというものだろう。

にち/\に神のはなしをたん/\と

きいてたのしめこふきなるぞや

おふでさき(三号149)
【おふでさき 三号149 註釈】
日々にこの真実な親神の話を聴いて喜べ、この話こそいついつまでも変わる事なく、永久に世界たすけの教えとして伝わるべきものである。

旅行も、勉強も、そして信仰も、そのプロセスを楽しむ気構えの中にこそ「値打ち」がある。

親神様は取次、私たちを育てるために、そして私たちが信仰のプロセスを楽しむために、あえて「余白」を残されたのではないだろうか。

そう考えると、その親心は果てしなく深く、温かいと感じるのは私だけではないはずだ。

次回は、ようやく『こふき』の内容に入っていく予定なので、楽しみにお待ちいただきたい。

  立教189年5月1日
    天理教繁藤大教会長
          坂 本 輝 男あきお

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