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シリーズ
「かしもの・かりものの理」を深く掘る vol.4
前号をまだ未読の方は、よければこちらもご一読いただきたい。
ついに「令和の米騒動」が繁藤に
「会長さん、もう明日御供するお米がありません」
先月のある日の朝づとめ後の一コマだ。
驚くでもなく、湧き上がったのは「ついにきたか・・・」という感情だった。昨年、教会で収穫したお米が底をついたのである。
ふと、4年前初めて米作りに挑む際に、近所のお百姓さんに言われた一言を思い出す。
「言うとくけど、米作るよりも買ったほうがよっぽどマシやで」
いざ米作りを始めてみると、その言葉がひしひしと身に沁みた。
肥料代に農薬代、稲苗の費用、高価な農機具など思いのほか出費が大きい。しかもウクライナ戦争や物価高騰により、かさむコストはどんどん膨らむ。
また肉体労働に加え、自然が相手だけに、一年かけ苦労して育てた稲が、台風や害獣によって台無しになることも往々にしてある。
とてもじゃないが人件費なんか考えられない。繁藤大教会は神様への御供と自家消費するのが目的なのでまだマシだが、これではとても商売など成り立たないと心底思った。
そりゃ農業の担い手が不足して、耕作放棄地が増えるわけだ。


安いお米を買うことができるか
一転、買い手に立場が変わると、たちまち心は早変わりする。
目下、いかに安く買うことができるかという問題だ。早速、必死になって安くお米を卸してくれる方を親戚知人にあたった。
しかし結果は惨敗。
頭では分かっていたが、ようやく米騒動を我が事として痛感した。自分だけじゃない、みんな困っているのだ。
そんな心境の中、あらためて米騒動の一連の報道を見聞きすると、ふつふつと憤りを感じている自分がいた。
首相が、大臣が、農林水産省が、農協が・・・。
・・・いやちょっと落ち着こう。
お道を信仰する者として、困りごとに直面したときにこそ、天理の教えに照らして本質に向き合うべきでないか。
そっと、テレビやスマホのスイッチをOFFにして、「心の治め方」を思案してみた。

米はなくても水はあるやろう
真っ先に頭に浮かぶのは、諭達第四号にも引用されている有名な逸話である。今回はあえて教祖伝ではなく「私の教祖」(中山慶一 著)から引用したい。
「貧に落ちきれ」との親神様の思召のままに、教祖と長男・秀司様、末娘・こかん様の家族三人で貧のどん底を通られていた頃である。
炊事をしようとするこかんが、食膳を整える何物もない日々が続く悲しさに、愚痴ともつかず訴えともつかず、つい、「お母様、又今日も炊くお米が御座いません」 と淋しそうに言うと、
「こかんや、米はなくても水はあるやろう」
「世上世界にはなあ、枕元に食べ物を山程積んでも食べるに食べられず、水も喉を越さんと言うて苦しんでいる人があるのや。その事を思えば、わし等は結構や、水を飲めばおいしい水の味がする。神様が結構にお与え下されてある。喜ばして貰わにゃいかんで」
と優しくお諭しになっている。
(中略)
秀司が(柴や青物の)売り荷を担いで歩くのは、勿論一家の生計を支える為ではあったが、決して利益を求めて汲々 [※1]としていたのではないから、売り値は誰よりも安く、又困っている人には価を取らずに呉れて了うという風であったから、自然大人の世界にも人気があって、紋付さん(秀司)の通るのを待って買うという様になって来た。
利を求めるのではないと言っても、一日の売り上げが夕餉の米代になる程にも達した時は、さすがに心も軽く早速米に代えて、帰りを待つ教祖や妹に、温かい御飯を上げる事の出来る喜びに、いそいそとして家路を急ぐのであった。
斯様にしてやっとの思いで手に入れて帰ったお米でも、丁度その折、門戸に物乞う人でもあれば、教祖は何の惜し気もなく施して了われるのであった。そして、
「御苦労やったなあ。さぞ疲れたやろう。けれども、お陰であの人に喜んで貰う事が出来た。結構やったなあ」
「どれどれ、それでは私もお仕事をさして頂こう」
と仰せになって、いそいそとして糸紡ぎの夜業をお始めになるのであった。。
私の教祖(中山慶一 著)
この逸話において、私たちに教祖が伝えたかった本質こそ、まさに「かしもの・かりものの教え」であると私は考える。
※1 汲々
小事に心をとらわれて、あくせくするさま。


「あるのにない」と「ないのにある」
教祖の逸話をふまえ、あらためて前半部分を読み返してみると、我ながら自分勝手なものだ。
教祖のご在世当時と比べ、現代の私たちが置かれている環境は段違いに豊かになっている。しかし、
お米の作り手の立場からは、
ないものねだり。
お米の買い手の立場からも、
ないものねだり。
つい「ないもの、足らないもの」ばかりに目を向けてしまいがちなのは、私だけではないだろう。その根底には「自分がお米を作っている」、「自分さえよければ」という「自分(我)」が先に立ってしまっている人間の性があるのではないか。
そして、そんな利己的な態度から生まれる憤りを、相反する立場でぶつけ合っても、心が一つに折り合うことは決してないはずだ。
そんなときこそ心を静め、「かしもの・かりものの教え」の視点で物事に向き合ってみよう。


恵みの雨を田んぼに引いてくること。稲の茎が分けつ[※2]すること。
根が大地に張り、天に向かって成長し、稲穂がたわわに実る。
火水風をはじめすべて十全の御守護のおかげがあってのことである。この世は神の身体であり、親神様の懐に抱かれて我々は生きている。
そして、そんな自然と全く同じ理で、人間の身体が絶え間なく機能している。食べたお米が消化され、栄養となり、体温を保つもととなる。身体は神様からの借り物であり、我々は目に見えない御守護によって生かされている。
かしもの・かりものの教えに身を委ねたとき、「ないもの」ではなく、「ない中にある」ことに意識が目覚め、全く違う世界が見えてくるはずだ。
目に見えない親神様のお働き、偉大なる恩恵に対し、心に明るさと感謝が自然と沸き起こる。



教祖は、
まゝ食べるのも月日やで。
もの云うのも月日やで。
これわからんがざんねん/\。
とおっしゃった。
私のように「ないもの」にとらわれて、目の前の事柄に一喜一憂し、大切な本質を見失ってはいけない。これがこのたび、皆さんと確認し合いたかったことである。
決して、米騒動の問題を軽視するわけでもないし、単に我慢すればいい、諦めたらいいということではない。
繰り返しになるが、心から離してはならない本質や根幹こそ、まさに教えの台といわれる「かしもの・かりもの」である。
さて、今月から梅雨の時期に入る。10月の秋季大祭で、皆さんに美味しい新米を振る舞えるように、感謝とともに今日も田んぼの水の様子を見に行こう。
※2 分けつ
イネの苗の根元から次々と新しい茎が分かれて出てくること。生育の条件にもよるが、1本のイネからはおおよそ20本前後の茎が出てくる。
立教188年6月1日
天理教繁藤大教会長
坂 本 輝 男

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