――― 『おはなし』を聞いて、鳥肌が立ったことはあるだろうか。
昨年、六代目神田伯山という講談師、いや講談という存在を初めて知った。
ああ、話に引き込まれるとはこのことか。
初めて聞いたのは『中村仲蔵』という有名な演目だった。
最初は、落語と似ていると思うだろう。わかりやすい違いといえば、噺家の前に机(釈台)があるのと、張扇でパパンと叩くところだ。
しかし、今まで私が聞いてきた『おはなし』とは質が違う。
言葉の選び方や構成。
声色と抑揚。
リズムや間の取り方。
そして表情と動き。
そういった伯山氏の表現力と技術、なにより画面越しでも伝わるその迫力。
『おはなし』だけで、しかも画面越しで鳥肌が立ったのは初めてかもしれない。
『おはなし』一つでここまでの感動を生み出す。
私自身、人前で話すことは少なくないが、伯山氏の講談は、その『おはなし』を磨くことに、さらなる高みがあることを気づかせてくれた。
1時間弱の動画だが、ぜひ視聴して損はないはずだ。
(字幕ありでのご視聴がおすすめです)
つい先日、天理で『話し方 ~教祖のお心を伝えるために~』(教会本部・布教部主催)という2日間の講座を受講した。
不肖の身ながら最近、「会長さん『おはなし』が上手ですね」と言ってくださる方がたまにいる。実際に今回の講座の中でも、「すでに受講する必要ないでしょ」と言われた。
しかし、私自身こんなレベルで到底満足できるものではないと心底思っている。
情報やエンタメが溢れる現代社会では、スマホ一つでいくらでも時間は潰せるし、ついなんでも分かったつもりになってしまう。ましてやAIの台頭によって、油断したら自分の頭で考えるチカラも衰えていきそうだ。
我々が素晴らしいと思っている信仰をいかに相手に聞いてもらうか。その点において、『おはなし』の技術の向上は欠かせない。
なにも『おはなし』が上手い下手で図ろうとしているのではない。
伝える努力と工夫を怠ってはならないと私は考える。
もちろん神様の『おはなし』をお取り次ぎするには、話し方の技術だけでは足りない。
教えをもとに、日々の生活で神様の思召に向き合いながら信仰的な悟りを重ね、実行に移していく。
表面には現れずとも、そうした人の見えない陰の歩み方に裏打ちされた言葉でないと、『おはなし』が空虚なものになり、ひいては相手の心に届かない。
教祖の、
「心の澄んだ人の言う事は、聞こゆれども、心の澄まぬ人の言う事は、聞こえぬ。」
(稿本天理教教祖伝逸話篇176.心の澄んだ人 )
とのお言葉通りである。
神一条、たすけ一条、そして話一条。
今後、繁藤として『おはなし』の取り次ぎにチカラを入れたいと思っている。
これから宗教がもっと必要とされる時代が必ずくる。
繁藤につながるお互い、天理教の使命である人たすけにしっかりと役立てるよう、質実ともに『おはなし』の研鑚に努めていきたい。
奇しくも今月の月次祭の神殿講話は私がそのお役を預かっている。
自分でハードルを上げておいていささか不安だが、日曜日ということもあり、一人でも多くの方にお参拝にお越しいただきたい。
最後に、教祖の口伝を紹介して、今月の巻頭言を締めくくろうと思う。
「この道は話一条が救けの台、お話は嫌という程聞いておけ。嫌という程聞かせておけ。まさかの時には浮かぶで」
(みちのとも昭和56年3月)
立教187年7月1日
天理教繁藤大教会長
坂 本 輝 男
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