おすすめ 会長ブログ

雑草という草はない(繁藤月報-巻頭言 2024.5)

これは昨年、NHKの朝ドラ「らんまん」で脚光を浴びた、高知県出身の植物学者である牧野富太郎博士の言葉である。

ただ雑草というと、田んぼをやってる私からすると刈っても刈っても伸びてくる、正直鬱陶しい存在だ。また、この文章を書いている今日も、暖かくなって生えてきた大教会の神殿前の雑草を、為田先生がせっせと草抜きひのきしんをしてくれている。

それぞれに植物名があるのは知っているが、ついつい厄介者として「雑草」とひとまとめにする人がほとんどだろう。しかし最近、私自身そんな雑草のイメージが大きく覆された。

任命講習会と雑草の本

先月、おぢばの御用で、教会長任命講習会の世話係(練り合いの司会)をつとめさせてもらった。

当月に教会長のお許しをいただく直前、最後に受講するのが任命講習会だ。4月の受講者は30名足らずであったが、海外の方も多く、皆さんの年齢や境遇をはじめ、教会長になる経緯は多種多様であった。

そして、やる気と不安が入り交じる心境の中でつとめた練り合いは、うわべだけのやりとりではなく、深く本音で語り合うものとなった。

任命講習会の受講生たちとお参拝

そんな中、おぢばに滞在中にたまたま読んだのが、「雑草はすごいっ!」という書籍だ。雑草の生態を研究している稲垣栄洋博士と、お笑い芸人の小島よしおさんの共著である。

最初にいうと、この本と任命講習会はなんの脈略もない。ただ読んだのが同じタイミングだったことで、私が勝手に教会長(教会)のあり方と重ねて読んだだけの話である。

しかしお道では、種、根、芽、花、木、肥えなど、植物や農業に例えられた教えがたくさんある。私の勝手な悟りもあるが、雑草の生態から得られる気づきの中にも、天然自然の道 [※1] に通ずるものが多々あると感じた。

一部、本のネタバレになってしまうが、あらかじめご了承いただきたい。

① 雑草は弱い植物

まず始めに驚いたのは、雑草はどこにでも生えるイメージがあるが、実は生える場所はそれぞれ決まっているということだ。

よく人に踏まれる場所には、踏まれるのに得意な雑草が生えている。

よく草刈りされる場所には、草刈りに強い雑草が生えている。

「どんな場所にも生える雑草は強い」と言われるが、実は植物学的にむしろ「雑草は弱い植物」だという。雑草が強く見えるのは、得意な場所だけに生えているからだそうだ。

現に、大きな木々が、枝を伸ばし、光を奪い合って生きている「森」では、雑草は競争に負けてしまうとのこと。

一方で雑草は競争には弱いが、踏まれたり、抜かれたりすることには強い。森で生きる植物もあれば、アスファルトの割れ目から生えてくる雑草もある。著者はこういう。

自然界を生き抜く上で、もっとも重要なことは、他の生物よりも優れていることではない。他の生物と「かぶらない」ことでなのである

② 大きいタネと小さいタネ

また雑草には、生存していくこと自体にもちゃんと戦略があるそうだ。

植物にとって生存上、最も大切なことは種子を残すことである。種子を生産するときには、二つの方向の戦略がある。一つは大きいタネを作る戦略、もう一つは小さいタネを作るという戦略だ。そして、どちらの戦略が有利かは、環境によって異なる。

ひっつき虫は動物に張り付いて種子を運搬してもらう戦略をとる

雑草が生えるのは「予測不能な変化」が起こる環境であると言われ、何が起こるか誰にもわからない環境だ。そんな不安定な環境では、たくさんの小さいタネを作る戦略が有利となる。

何しろ、どのタネが成功するかわからない。一つ一つのタネは小さくても、タネの数が多ければ、そのうちどれかが大きく育つかもしれない。

だから雑草と呼ばれる雑草は、たくさんのタネを飛ばす。そのほとんどは生存することができないが、そのうちひとつが成長できれば、雑草にとって、それが成功なのだ。

予測不可能な環境では、小さなタネをたくさんばらまくことが大切

③ 雑草魂の本当の意味

最後に、雑草魂という言葉がある。

踏まれても踏まれても立ち上がる不屈の魂をイメージするだろう。しかし実際は違うと著者はいう。

冷静に考えてみてほしい。雑草にとって、もっとも重要なことは何だろうか。それは、花を咲かせて種子を残すことである。とすれば、踏まれても踏まれても立ち上がるというのは、かなり無駄にエネルギーを浪費することになる。そんな余分なことにエネルギーを使うよりも、踏まれながらも種子を残すことにエネルギーを注ぐ方が、ずっと合理的である。

踏まれるのに強いので有名なオオバコ

踏まれている雑草を見ると、踏まれてもダメージが小さくなるように、地面に横たわるようにして生えている。そして、雑草は踏まれながらも、最大限のエネルギーを使って、花を咲かせ、確実に種子を残すのである。

踏まれたら立ち上がらなければいけないというのは、人間の勝手な思い込みかもしれない。

プライドや世間体のために立ち上がろうとしているだけではないだろうか。

踏まれても踏まれても立ち上がるやみくもな根性論よりも、雑草の戦略は、ずっと合理的である。そして、ずっとしたたかで、たくましいのである。

大切なことを見失わないことが、本当の雑草魂なのだ

他にもたくさん気づきはあったが、今回は雑草の特性を3つに絞って紹介した。

雑草から学ぶ、教会のこれから

現在、日本国内を中心に、約1万4千ヶ所の天理教の教会がある。

当たり前だが、教会長のキャラや年齢も様々であり、教会の規模や雰囲気、地域性など、どれをとっても一つとして同じ教会はない。

また、教会を取り巻く環境も「予測不能な変化」が時代とともに増しているように感じる。

雑草と教会長を同一視して議論するのは少し乱暴であるが、両方に通じていえるのは「こうやったら上手くいく」という必勝法はないということだ。

大教会の前で満開に咲く藤の花

冒頭に「雑草という草はない」と述べたが、教会長(教会)にせよ十把一絡げ [※2] にすることはできない。

それぞれに与えられた徳分や環境を活かした個別の歩み方があるはずだ

大切なのは、自分の頭で考え、工夫することである。もっと言えば、目指す方向性、戦略、頑張り方などをもっと議論していく必要があると私は思う。

ただ、それは社会通念的 [※3] な合理性からだけでなるものではない。一番の根幹はもちろん、親神様の思召にかなう道筋を思案し、教祖に後押ししていただけるような心の成人を求めていくことだ。

結びに

今回の任命講習会における練り合いは非常に楽しいものだった。新たに会長になられる方々とともに、未来への展望と決意を語り合う場は、むしろ私自身が勇みをもらった。

もうすぐ年祭活動は折り返しを迎える。三年千日では色々なことを親神様からお見せいただくことがある。

もし辛いことがあったとき、上を向くのもいいが、たまには下を見て雑草の生き方を思い出してみることをおすすめしたい。

  立教187年5月1日
    天理教繁藤大教会長
          坂 本 輝 男

読んで良かったと思ったら「スキ」押してね♪

脚注 
[※1] 天然自然の道(てんねんしぜんのみち)

この世界(人間をも含めて)は親神の創造と守護の働きによって、成り立っているのであり、親神の摂理のままに支配されているのである。その意味で、この世界に現れてくるすべての事象には、親神の思わくが込められている。ところが、人間はそのことを知らず、自由を許された心で、自己の力でこの世界を支配しようとする。このような人間の考え、行いに対して、親神の創造と守護の世界、親神が思わくを込めて支配する世界であることを言われたものである。(天理教事典より引用)

[※2] 十把一絡げ(じっぱひとからげ)

多くのものや人を一つにまとめて考える、または扱うことを表す言葉である。この表現は、個々の違いや特性を無視し、全体として一括りにする様子を描写している。

[※3] 社会通念(しゃかいつうねん)

社会一般に通用している常識または見解。

-おすすめ, 会長ブログ
-, , ,