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変わりゆくお葬式のカタチ(繁藤月報-巻頭言 2024.3)

お葬式は必要なのか

「お葬式って何のためにするんでしょうか。本当に必要なことなんですか?」

こう聞かれたら、皆さんならどう答えるだろうか。

人間はご飯を食べないと力が出なくなるし、睡眠をとらないと身体に不調が起こってくる。

では同じように、お葬式をしないと人間は生きていけないかというと、決してそういうものではないだろう。

少々、極論を述べたが、実際に時代の流れによってお葬式のあり方もずいぶんと変わってきている。

お葬式をせずにそのまま火葬を執り行うという「直葬」であったり、近親者だけの少人数で行なう「家族葬」というのも珍しいことではなくなった。

ある調査結果によると、コロナ禍以前はいわゆる「一般葬」の割合が約半分だったが、2022年になると「家族葬」の割合が半数を上回り、「一日葬」や「直葬」を合わせると、およそ4分の3の割合を占めるそうだ。

また一方で、大切な人を亡くして、悲しみに沈んでいる遺族に寄り添い、立ち直り、自立できるようサポートする「グリーフケア」にも注目が集まっている。

天理教の葬儀を見つめ直す

そんな中、先日天理教における葬儀の祭儀について一部変更があった。

祓(はらい)や玉串奉献が廃止になるというものだ。(2月7日の天理時報、もしくは「みちのとも」3月号を参照)


今回の打ち出しを受け、繁藤では葬儀のあり方を見直す会議体を早速立ち上げた。

あらためて葬儀の意義は、心を込めて故人を見送ることはもちろん、残された方々のためのものでもある。

当初、祭儀を執り行う斎官(祭官)の研修だけを考えていたが、果たしてそれだけで申し分のない「お見送り」となり得るだろうか。

天理教の葬儀の様子(ひのき葬祭ホームページより引用

どの宗教にも違いこそあるものの、死者を「弔(とむら)う」という儀式がある。その起源は諸説あるが、約6万年も前からあるそうだ。

死者の弔いと宗教は密接な関係があり、なぜ葬儀をするのか?という問いは、そもそもなぜ宗教が必要なのか?と言い換えをしてもおかしくはない。

この大きな問いに対し、京都大学元総長で霊長類学者にして、ゴリラ研究の第一人者である山極 壽一(やまぎわ じゅんいち)氏は、ある対話でこう述べた。

「いつか死ぬということが分かっているのは人間だけである」

知能が発達している動物でも、いつか命が絶えるという事実をあらかじめ認識して生きているわけではないということだ。

逆にその終わりを認識しているからこそ人間は死を恐れ、生にしがみつく。

死に対峙するということは同時に、何のために生きるのか?という問いに向き合うことと言える。


出直しの教理

お道の教えでは人の死を「出直し」という。

元々、出直しという言葉は「最初からもう一度やり直すこと」を意味する。その言葉通り、お道における死とは単なる終わりではない。

一人ひとりの身体は親神様からの「借り物」であり、死という節目は、親神様に一旦この身体をお返しするということである。

そして、生き通しである「魂・みたま」にまた新しい身体を借りて、この世に生まれ替わってくる。

つまり死(出直し)は終わりであり、出発でもある。真逆と考えられている「生命の誕生と死」という二つのものは、一つに繋がり合わさっている。

そして人間は、人を救ける心を働かせていくことによって魂に徳をつけ、前生のいんねんをもって生れ替わっていくごとに、陽気ぐらしへの歩みを進めていくことができる。

このたびの葬儀の祭儀変更は、カタチだけに目を向けて済ませるのではなく、深いところの「魂」について思案する契機となるのではないだろうか。

このことは教会長だけに限ったことではない。なぜならば、お道の教えは単なる道徳や自己啓発的なものに留まらず、人間が生きる目的を真に明らかにしているものだからだ。

誰しもが迎える「出直し」という節目に際し、遺族の悲しみに寄り添い、共に陽気ぐらしへと心を向けられるよう、今後、繁藤の皆さんと心の練り合いを深めていきたい。

  立教187年3月1日
    天理教繁藤大教会長
          坂 本 輝 男

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