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私の言葉は独りよがり?お道の教えの翻訳を(繁藤月報-巻頭言 2024.2)

渡辺先生の言葉のチカラ

「私はお道の言葉を使わずに、天理の教えを分かりやすく翻訳して、子どもたちに伝えようとしているんです」

先月の春季大祭にお越しいただいた渡辺道治先生は、お話の中でこうおっしゃった。

実際に先生の言葉は小学生でも分かりやすく、なおかつ我々大人にとっても深く、強く心を揺さぶるチカラがあった。

先生は今でも小学生のクラスの担任として日々授業を行い、これまで学級通信を毎日のように書き、その数は一万枚を超えるそうだ。

僭越ながら、私自身も教会長になってから夕席(夕づとめ後のお話)をほぼ毎日つとめ、月一回ではあるがこの巻頭言を書いてきた。

だからこそ、比較するのはおこがましいが、その継続における先生の努力と労力は想像に難くない。言葉を磨き続けてこられたからこそ、渡辺先生の授業には感動があった。

渡辺道治先生による講演会

宗教に答えがある故の落とし穴

当たり前だが、宗教には教義という答えがある。言うなれば、初めから言葉が用意されているようなものだ。

しかし、相手の悩みや苦しみに寄り添い、対話するとき、言葉は「こちら側」にあるという態度では、ややもすれば傲慢になりかねない。

少年会員(0歳から15歳)の子どもたちに信仰の価値をどう伝えるか。

宗教は胡散臭いと言っている方の心を動かす言葉はなにか。

大地震に被災された方々にかける言葉は、教えではこうなんだという正論なのか。

宗教家、おたすけ人として、他者の深いところと真正面から向き合うとき、上っ面な言葉では戦えない。

また、一方的に「話す・伝える」だけでなく「聞く・受け止める」という双方向のコミュニケーションでなければ、それはただの独りよがりになってしまう。

そして、宗教という目に見えない世界を語るからこそ、自分自身が体験した血肉として出てくる「言霊」が宿った言葉でなければならない。

言うは易し行うは難し。

私自身、小手先でそれっぽく言葉を並べても相手に伝わらず反省ばかり。未だ、「私の言葉」を探し続けている。

1/20に「おたすけ推進の集い」を開催した
おたすけの糸口を事象ごとに整理しながら深めていく「おたすけワークショップ」の資料
班ごとの練り合いでは天理時報の「人生相談」のコーナーの問答を題材に、人たすけの向き合い方を深めていった

ひょっこりひょうたん島の作家の言葉

私が日本語表現において私淑[※1]している方に故・井上ひさしという作家がいる。ひょっこりひょうたん島の原作者といえば、30代以上の方ならお分かりいただけるだろう。

渡辺先生と関わる中で、井上氏のある言葉が思い出された。

むずかしいことをやさしく、
やさしいことをふかく、
ふかいことをおもしろく、
おもしろいことをまじめに、
まじめなことをゆかいに、
ゆかいなことをいっそうゆかいに。

作家・井上ひさし
1960年代にNHKで1,000回以上放送された人形劇
誰しも一度は耳にしたことがある懐かしいメロディー(作詞:井上ひさし)

教祖から教えられた「生きた言葉」

この井上氏の言葉は教祖のひながたにも通ずるものがあるのではないだろうか。

親神様はなぜこの世、人間世界をつくったのか。

人間の生きる目的はなんなのか。

この究極の問いを当時の人々にどう得心させるかということに教祖は心を砕かれ、「陽気ぐらし」という真実の教えを示された。

そして教祖は、時に例えを用いて分かりやすく、親が我が子を慈しむようにあたたかく、恐れでなく希望をもたらしてくださった。

そんな教祖のひながたを辿るという点において、私たちの工夫や努力は欠かせない。

と同時に、教祖は難しいことを私たちに要求するのではなく、シンプルに繰り返しこうおっしゃった。

あんたの救かったことを、人さんに真剣に話さして頂くのやで。

100.人を救けるのやで(教祖伝逸話篇)
大教会神殿前の梅の冬芽

難しい言葉、借りてきた言葉、場当たり的な言葉はもういらない。

救けていただいた信仰の喜びや感動という自分の内なる根源から出てくる言葉にこそ価値がある。

さあ共に、一人ひとりの「生きた言葉」に磨きをかけ、胸から胸へと周りに伝えていこう。

  立教187年2月1日
    天理教繁藤大教会長
          坂 本 輝 男

[※1]私淑・・・直接に教えは受けないが、ひそかにその人を師と考えて尊敬し、模範として学ぶこと。(2023年5月号の月報巻頭言を参照

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