教会の沿革

繁藤大教会略年譜

嘉永2年6月7日坂本徳太郎出生
明治22年春坂本徳太郎入信
明治23年11月18日坂本徳太郎、講を結ぶ
明治25年3月3日繁藤集談所開設
同年9月27日繁藤支教会設置
明治27年4月9日本席様お入り込み
明治42年2月23日繁藤分教会に改称
明治45年1月23日徳太郎出直(享年63歳)
同年6月28日坂本照吉、二代会長就任
大正15年11月6日坂本照吉出直(享年46歳)
同年2月5日浜田道久、三代会長就任
昭和16年3月26日繁藤大教会昇格
昭和17年11月22日創立50周年記念祭執行
(以後、10年ごとに記念祭執行)
昭和26年3月20日神殿移転建築奉告祭執行
昭和30年1月26日坂本道照、四代会長就任
昭和33年8月23日坂本道照出直(享年46歳)
昭和33年9月26日坂本藤恵、五代会長就任
昭和46年4月11日第18母屋 繁藤詰所竣工
昭和47年7月5日繁藤追回山山津波発災
昭和52年12月1日神殿屋根葺替落成奉告祭
昭和54年7月6日浜田道久出直(享年79歳)
平成元年2月26日坂本照仁、六代会長就任
平成15年10月26日コロンビアに教会設立
令和4年2月26日坂本輝男、七代会長就任
同年5月22日創立130周年記念祭ならびに
七代会長就任奉告祭を執行

繁藤大教会の歩み

初代会長

坂本徳太郎は、明治22年妹八重の眼病を元に入信。別席を運び、布教をする中に「不思議なたすけ」に浴す信者が増え、明治23年に講を結ぶ。明治25年、繁藤集談所を開設。同年9月27日、繁藤支教会設立。当時、徳太郎は45歳。

明治27年、ご本席様の御巡教を頂く。この間、私財を提供して布教活動を進めていたがいつまでも続かず、紙漉工場を造って、その純益をもって心おきなく布教にかかろうと事業を興す。しかし、その事業は失敗し大きな借金だけが残った。教会解散の外なく、各自持ち寄りて建てたる瓦、柱、畳、建具等を各々分配する際、初代会長は「鳴物、神具等は必要ないだろうから、もし分け分として下さるなら、これを私に下さい。」と言った。初代会長は終始一貫「人だすけの道」に精進し、明治42年、繁藤分教会に改称。明治45年、63歳にて出直した。

初代会長の信念は、「親孝行を以て第一義とす」であった。これは、上たる親に仕える事によって、上から流れる理を受けることができる。したがってこの理を下へ流すことができる。ゆえに親孝行することが子供を愛する道である、というもの。この信念は、初代会長以来伝統的に一貫して来た信仰であった。

二代会長

坂本照吉は、苦難の時代の中、高等小学校に通いつつ、郵便配達をしながら家計をたすけた。明治33年より髙知分教会青年づとめをし、明治35年に一旦教会へ戻り、その後高知に布教に出る。明治38年より北海道に布教に出て、翌年教会に戻り、次は種崎へ布教に出る。明治45年、照吉31歳で父亡き後をうけて二代会長に就任。負債は依然として解決されず、教会の生活も相変らず苦しい毎日が続いた。二代会長の歩むべき道は「たすけ一条の道」にいそしむ外になかった。部内教会へ親心を尽くして、その発展に尽力し、ことに二代目の信仰を目指す若者達を教会に引き寄せ、その育成に心血を注ぎ、「修理肥」の実を上げたのである。その道中には、北礼拝場ふしん、教祖30年祭、髙知詰所移転、全教が湧きに湧いた教祖40年祭活動、髙知詰所の田井之庄へ再度移転と、心休まる間とてない激動の時代であった。その中をたすけ一条に邁進し、教勢の進展に精魂を傾けた二代会長。大正15年、大勢の信者達に惜まれながら46歳で出直した。

三代会長

浜田道久は、大正15年に25歳で三代会長に就任。昭和5年に教祖50年祭、立教100年祭が発表され、昭和ふしんが提唱された。島村國治郎 髙知大教会二代会長は、普請用材の献木を申し出て、献木探査班を編成。道久会長は、この献木探査の一員として山奥深く分け入り、数々の苦難を乗り越えてそのつとめを果たす。髙知大教会の思いに添い、寝食を忘れてつとめるうちに、いつしか長年苦労の種と思われていた負債は解決し、繁藤の教勢は更に拡大して阪神、東北方面へと伸びて行った。

昭和16年大教会に昇格し、髙知大教会より分離した。この時、髙知大教会二代会長は「分離さすのやない。分家さすのや」と言われ、繁藤一同はその量り知れない親心に感激した。その後、「百万人信徒結成、よふぼく養成(教師1万人、よふぼく10万人)、大教会神殿建築」の三大活動方針を提唱し、その実現に向って歩みを起こした。昭和26年、移転建築落成奉告祭を執り行った際、二代真柱様より厚く親心をいただき、一同大いに感激発奮した。昭和28年、おやさとふしん方ひのきしん部主任を拝命。

昭和30年、会長の職を坂本道照に譲り、真心の限り親里ぢばに伏せ込むことになった。同年、本部准員に登用。修養科主任をはじめ、数々の責任ある立場で働き、昭和40年に本部員に登用。昭和54年、大勢の人々に惜しまれながら79歳をもって出直した。

四代会長

坂本道照は大正2年に生まれる。昭和18年、当時協議されていた後免への教会地移転にあたって、後免に布教に出られる。同年、万歳の声に送られて戦地へ出征。その後、終戦を経て、神殿建築に尽力する。昭和28年、わかふじ保育園を設立し、初代園長となる。昭和31年、41歳で四代会長に就任。教祖70年祭を無事につとめ上げ、いよいよ100万人救けの再出発を期して、部内の丹精に精力的に活動を開始したが、その途上の昭和33年、46歳の若さで無念の出直しをした。

五代会長

坂本藤恵は、昭和33年に40歳で五代会長に就任。女の細腕で、ただ前向きに一歩一歩と真実に進む中に、昭和35年、大教会昇級20年目にして詰所を開設。昭和37年、客殿増築・信者室増築。昭和45年、第18母屋ふしんにかかった。連日20数名のひのきしんが繰り出され、本部直営で賑やかに進められ、翌年、三代真柱様のご臨席を仰ぎ、第18母屋繁藤詰所の開所式を執行。

昭和47年、梅雨の長雨で山津波発生。二次災害によって、大教会所属の若きよふぼく3名も出直した。この大節から、更なる成人を誓ってたすけ一条の上に邁進する。

昭和52年、祖霊殿神床模様替、神殿増築並屋根葺替の落成奉告祭執行。昭和55年「カリ布教所」開設のため、御目標様を奉持して、未知の国コロンビアに渡った。この事を契機として、毎年のようにコロンビアからの帰参者を迎えることとなる。昭和59年には、後継者照仁を同道し台湾に巡教。昭和57年、教祖百年祭が喜び一杯の中盛大につとめられた。その活動は「元一日にかえり一より始める旬」と教えられた。初代会長のたすけ一条の精神、又、三代会長が提唱した「100万人救け」の信念を今にかえして、真剣に且つひたむきに道の上に尽くされた。昭和63年頃より、辞任の意志を明し、平成元年に会長の職を辞して後も、よふぼく信者の上に心を砕き一人一人に声を掛け導かれた五代会長。平成27年、99歳で出直した。

六代会長

坂本照仁は、平成元年2月26日に36歳で六代会長に就任。大学卒業後、真柱様のお宅でお仕込み頂き、本部青年を拝命。就任奉告祭は大雨の中ではあったが、1300名余りの参拝者を得て盛大に執行。平成2年の教会長年頭のつどいにて、創立百周年記念祭に向かう三年千日の活動目標を発表し、大教会信者会館、役員住宅の建築を発表。同年9月21日信者会館起工式執行。平成3年12月21日、竣工引渡式を挙行。

この間、三年千日2年目の年は、全教会単位で「よふぼくのつどい」の実施を促し、その成果を11月24日、おぢばでの「よふぼく決起のつどい」に結集するよう活動を展開した。繁藤大教会創立百周年「よふぼく決起のつどい」は、2500名を越えて、12時より、東礼拝場にて祈願のおつとめをつとめ、東講堂に移動。あの広い東講堂に参加者が溢れ、屋外で立ったまま参加する者も出た。大教会長の感激の挨拶、本部員高井猶久先生のお話、安部栄次郎役員の閉会の辞、万歳三唱の後、翌平成4年11月5日、創立百周年記念祭での再会を誓い、その幕を閉じた。この時、台湾より10名のよふぼくが参加。初代会長の信仰信念を目標に、教祖のひながたの実践を心に、日々勇んでつとめられた。

平成14年に創立110周年記念祭、会長宅改築。平成15年コロンビアに繁藤カリ教会設立。平成24年に創立120周年記念祭、食堂・炊事場改築。その後、教会墓地に納骨堂竣工。令和4年2月26日に会長の職を長男の輝男に譲り、今に至る。

懐かしの旧神殿
わかふじ保育園発足(昭和28年)
おやさとひのきしん(昭和29年)三代〜六代会長が揃った一枚
四代会長時代の教会在住者(昭和31年ごろ)
二代真柱様お入り込み(昭和37年)
真柱様・奥様お入り込み(平成14年)創立110周年記念祭