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2つの時間軸
「会長さん、この悩みどうしたらいいと思いますか?」
人は誰しも様々な困難や悩みを抱えて生きている。病気やトラブルで切羽詰まったケースもあれば、人間関係のもつれであったり、自分のことが嫌いなど、長期間にわたる悩みもある。
相談を受け、悩みに寄り添うたびに、私(会長)に「たすける力・導く力」は果たしてあるのだろうか。いやそんな力、私にはない…と自分の無力さを痛感する。
そんなやりとりを重ねる中で、信仰の求心力には2つの時間軸があるのではないかと私は考えた。
一つは、まさに今抱えている病気、もしくは困りごとをたすけてほしいという緊急度の高いもの。
そしてもう一つは、緊急度は高くないが、避けることのできない本当に大切なもの。例えば、変えたくても変えられない自分の深い内面であったり、死とはなにか? 人はなぜ生きるのか? 幸せとは? といったすぐには答えがでそうもない問いである。
仮にこの2つを「早い信仰」、「遅い信仰」と名付けてみよう。

「早い信仰」に向き合う
まずは早い信仰、つまり緊急度の高い事柄だ。
突然の困難やトラブルに遭遇したとき、頭が真っ白になって混乱し、どうしていいかわからなくなってしまう。難局、非常時、お道でいうと「ふし(節)」といえるだろう。
非常時という言葉で思い出すのは以前、地元の消防団に入ったばかりのときに受けた教育訓練の場だ。そのとき、繰り返し教わったのが「非常時にこそ、基本的な訓練や備えが重要になる」ということである。災害などに遭遇したことがある方は、身に沁みて感じることだろう。
また同じような文脈で、パイロットの世界ではトラブルなどに直面した際に、〝 Back to Basics 〟(バック トゥ ベーシックス)と先輩から厳しく教えられるそうだ。意味は「基本に戻れ」である。難しい問題に直面したときこそ、物事をシンプルに捉え、基本に戻ることは、どんな世界にも通づることだろう。

「遅い信仰」に向き合う
そして、もう一つの遅い信仰だ。
こちらは、また別の意味で雲を掴むようなものだろう。
人はつい奇跡を求めてしまいがちだが、人生ドラマチックな出来事ばかりではない。
例を出そう。
仕事や生活、家事育児に追われ、気づけばもうこんなに歳をとってしまっている。ふいに立ち止まって心に浮かぶのは、自分はこのままでいいのだろうか? 何のために生きているのか? といった大きな問いだ。
このような問いに対する答えを探すために必要なのは、ネットなどに溢れる情報をいかに多く集めるかということではない。むしろ、効率や成果だけを求める「早さ」よりも、あえて時間のスピードを遅らせた中にある「見落としていたもの」に向き合うことが必要になってくるだろう。
そしてそれは流行り廃りでもなく、小難しいことでもないはずだ。
自分の本心やルーツであったり、普遍的 [※] に人間として大切すべきことなど、シンプルな真理に向き合う営みともいえるだろう。
[※] 普遍的
時代や場所が違えど変わらない物事や価値

お道の教えの土台(基本)
では、お道の信仰における基本は何だろう?
めへ/\のみのうちよりのかりものを
しらずにいてハなにもわからん
おふでさき 第三号137
とあるように、教えの台は「かしもの・かりものの理」である。
私自身、このことを何度も耳にし、あらゆる場で話をしてきた。
ただ、果たしてこの教えの台という真理が掴めているのか。単なる知識として頭だけで捉えてはいないだろうか。
ここであるエピソードを紹介したい。
心理学の巨匠「C・G・ユング」といえば多くの方が一度は耳にしたことがあるだろう。ユングは優れた心理学者であるとともに、宗教に深い関心をもつ人物であった。
そんなユングは、あるインタビューでこう尋ねられた。
Do you believe in God?
(あなたは神様を信じますか?)
少し間を置いた上でユングは、
I don’t need to believe.
I know.
(信じる必要はない。私は知っている。)
と答えたという有名なエピソードがある。
例えば、目の前にある果物が何かを尋ねられたとき、「これはリンゴだと信じている」とは普通は言わない。厳然たる事実として「これはリンゴだ(と知っている)」と言うはずだ。
神の存在と同様に「かしもの・かりものの理」も目には見えない事柄だけに、信じるか否か、というような向き合い方をしてもおかしくない。
しかし、先述のおふでさきには、「身の内よりの借り物」を信じるとか、理解する(わかる)ではなく、「知る(知らず)」と示されている。
普通の人には見えなくても、他人が何と言おうと、自分はそれをしっかりと掴んでいる。ということが、信仰上”知る”ということになるのではないでしょうか。
引用:「かしもの・かりもの」の心 松本滋 著
親神様の思召(おふでさき)には、その言葉・単語も含めて、深い真理が込められているのだ。

「知っている」境地へ
「早い信仰」と「遅い信仰」。
状況は違えど、どちらにも求められるのは「かしもの・かりものの理」という土台を深く掘り下げていくことだ。
教祖のお側におられた先生方、坂本徳太郎初代会長はじめ今の繁藤の礎を築いてくださった先人たちは、もうダメだという節をどうして心を倒さずに乗り越えられたのか。
今と比べると限られた教えしか聞かされていなかったのに、なぜこれほどまでに胸から胸へ信仰が伝わっていったのか。
昔の信仰の先人たちは、神を信じるというよりも、むしろ知っていたともいえるのではないか。
そして私たちが目指していくのは、「信じる」ではなく「知っている」という境地ではないだろうか。

さて、この境地に向けてどのような過程を経ていけばよいのか、もう少し具体的にその考えをともに深めていきたいが、かくいう私も頭で考えてばかりで、その境地はまだまだほど遠い。
紙幅の都合上もあり、この続きは次回以降に持ち越したい。
最後に、このたびのコラム中盤の「お道の教えの土台」という段落の部分は、引用にもあるように松本滋 先生の「かしもの・かりものの心」を大きく参考にさせてもらった。とても素晴らしい書籍なので、一読をおすすめしたい。

立教188年3月1日
天理教繁藤大教会長
坂 本 輝 男
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