ー 我が家では8月29日を焼肉パーティーの日と定めます ー
現在、坂本家の絶賛推しのアイドル、次女の「さえ」が8月29日(やきにくの日)に初めての誕生日を迎えました。
当日、おぢば(天理)から高知への帰路につき、車内で妻と「さえの誕生日どうする?やっぱ焼肉?」という話で盛り上がったのですが、相談の結果、「そもそも、さえはまだ肉食べれんし、俺らが嬉しいだけやん…」という話に落ち着きました。
結局、教会に着く頃には夕方になっていたこともあり、コンビニで買った小さなケーキ一つにロウソクを立てて、みんなで歌を歌いお祝いしました。焼肉の日どころかとても簡素なものになりましたが、ふとあらためてお道(天理教)における誕生日ってなんなんだろうと考えました。
誕生日の話をするたびに思い出すのが、おぢばで伏せ込みをしている頃のことです。
当時、住み込みで青年勤めをしている中、先輩後輩関係なく、なぜか誕生日の当事者は、自ら料理も酒も用意し、皆に振る舞うという「しきたり」がありました。
そして、それを我々は「祝(いお)うてくだされ」と呼んでいたました(Googleで「祝うてくだされ」と調べると、教祖伝の母屋取り毀(こぼ)ちの話が最初に出てきますが、これとは関係ないはずです)。
なぜこんなことが始まったのか。「アメリカではホームパーティーといって、これが普通やねん」と言う先輩もいるし、誕生日を誰も祝ってくれなかったらショックだから惨めな思いをするくらいなら自分でしてやろうと誰かが始めたことなのか、成り立ちの真相は定かではありません。
ただ、おめでとうと祝われるのは最初の乾杯だけ。始まってしまえば、皆各々お構いなしで酒を楽しむだけです。人をもてなすのが好きだからか、それとも皆と飲む酒が旨いからなのか分かりませんが、私は個人的にこの「祝うてくだされ」をとても気に入っていました。
それから年限が経ち家庭をもった今、家族の誕生日に決まってしているのは、朝夕のおつとめどちらかで、神様に御供(もしくは理立て)をしていることです。別にお道で決まっているわけではありませんが、そういう習慣がある信仰家庭も多いと思います。
これには今後も元気でいられますようにという願いの意味もありますが、まずは元気で結構に歳を重ねられたことや、日頃の御守護への感謝を誕生日という節目にあわせて親神様に御礼を申し上げるものだと思っています。また人によっては、誕生日には産み育ててくれた両親へ感謝の気持ちを言葉にして伝えることが大切だよというお道の先輩もいます。
捉え方はそれぞれですが、お道における誕生日というものは、どうやら当事者が祝ってほしいと周りに求めるものではなさそうです。
おさしづに、
満足は心の理、優しき者は日々満足。満足は小さいものでも、世上大き理に成る。 (中略) 満足というものは、あちらでも喜ぶ、こちらでも喜ぶ。喜ぶ理は天の理に適う。適うから盛ん。
(明治三十三年七月十四日)
とあります。これは、親子での身上願いにあたってのおさしづですが、日頃の心の向け方としても大切だと感じます。「喜ぶ理は天の理に適う」という陽気ぐらしの天理教らしい、私がとても好きなお言葉です。
ということで今後、我が家では8月29日をはじめ、それぞれの誕生日は、「祝うてくだされ」の日と定めます。両親に、兄弟に、周りの人たちに、何より親神様・教祖・霊様に対し、この目出度い日をどうぞ「祝うてくだされ」という気持ちで感謝とともに迎える節目にできれば嬉しい限りです。
1歳になる娘は、まだ焼肉どころかケーキすら一口も食べさせてもらっていない中、勝手に親に決められてさぞ不憫だなと思う気持ちもありますが、誕生日一つとっても、歳を重ねるごとに喜びや満足という天の理に適う心が大きくなってもらえるよう成人してもらえたらと願います。
立教186年9月1日
天理教繁藤大教会長
坂 本 輝 男