先日、SNSである方の投稿が目に留まりました。それは、「師匠と弟子」という日本には日本なりの学びのシステムがあるという内容です。
思い返してみれば、最初の私の師匠は、教会本部に住み込みとして青年づとめをし始めたときの先輩でした。神秘性や精神性を求めることの魅力と大切さを気づかせてくれた、一風ちょっと変わった方でした。そもそも私が勝手に師匠と呼び始めただけなのですが、喋り方や考え方、読んでる本から立ち振る舞いまで何でも真似をしたのを覚えています。今でも定期的に相談役として教えを乞う、有り難い存在です。
また歳を重ね、立場や考え方が変わる中、他にもこれまでに私の中で師と仰ぐ存在が何人かいました。あるときは50ほど歳が離れた古老であったり、バリバリの経営者の方であったり。また、宗派を越えてお坊さんを慕ったこともありました。
冒頭のSNSの投稿に話を戻し、結局そこで何をいっていたかというと、
「ようするに、師匠とは自分が弟子だと勝手に自認した人が真似をしたくなる人のことをいう。けっして先生ではないし上下関係でもない。師匠と弟子とは、学ぶのではなく、真似をしたくなるという関係である」
というものです。私自身、学生時代から現在も「先生」と呼ぶ人が大勢います。尊敬する方やお世話になった方は多々いますが、それが師匠と仰ぐような存在であったかと言われると、正直それはまた違うものです。自分自身、大きく考え方が変わった、成長できたというタイミングは、確かに自分が求めて師を追いかけたときだと感じます。
しかし、師匠との呼べる方との出会いなんか偶発的なものであり、なかなかあるものではありません。そこで紹介したいのが、「私淑(ししゅく)」という言葉です。意味は、直接に教えは受けないが、ひそかにその人を師と考えて尊敬し、模範として学ぶこと、とあります。
面白いのはこの言葉の由来でして、中国の儒学者 孟子(もうし)の言葉だというのです。孟子は、儒教の祖とも呼ばれる孔子から学問を学びたいと思っていました。しかし、そのとき孔子はすでに故人であったために、直接教えを乞うことができなかったのです。
孟子はその時の心境を「子は私(ひそ)かにこれを人よりうけて淑(よし)とするなり」と記しました。淑とは、よいと思う、慕うという意味があります。このことから、直接会えない相手から学ぶことを「私淑」と呼ぶようになったとされています。
つまり師匠と弟子というのは、当人の捉え方によって、時代を越えて紡ぐ関係性となりうるのかもしれません。それは芸能や武道、そして宗教においても当てはまるはずです。
お道における今の時旬において、最近私は教祖ご在世当時、周りにおられた先人先輩方の史実や本にふれる機会を意識的につくっています。教祖から直々に薫陶を受けた先人の歩みや信心にふれるたびに、まさにこの「私淑する」という気持ちになります。と同時に、そうやって先人に思いを馳せることも、ひながたを求めることに繋がっていくものだと強く感じます。
皆さんの中で、もしまだ師匠と呼べるような存在がこれまでいなかった方は、ぜひ師匠を探し、勝手に弟子入りをおすすめします。そしてそれは、今を生きる人だけに限ったものでなくてもいいと思うのです。もし昔の先人の中でおすすめの師匠がいましたら、皆さんぜひ私にも教えてください。
最後に、先ほど述べた話にぴったりの書籍『真実の道 道を啓いた先人・先輩の教話集 ―ひながた編―』という新刊が道友社から出ましたので、紹介して終わりにします。最後の最後で、道友社の回し者みたいになってしまいましたが、信仰の師を見つける一助になるはずなので、ぜひご一読ください。
立教百八十六年五月一日
天理教繁藤大教会長
坂 本 輝 男