読んで良かったら「スキ」押してね ♪

シリーズ
「かしもの・かりものの理」を深く掘る vol.3
前号をまだ未読の方は、よければこちらもご一読いただきたい。
言葉にできない違和感
このよふハ一れつハみな月日なり
にんけんハみな月日かしもの
おふでさき 6号120
人間というものは、身はかりもの、心一つが我がのもの。たった一つの心より、どんな理も日々出る。
おさしづ 明治22年2月14日
かしもの・かりものの理が語られるとき、よく引用される神言である。この2つの神言の要点をまとめると以下の通りだ。
① この世は神の身体
② 人間の身体は神様からの「かりもの」
③ 心一つが我のもの
私自身、このことは何度も耳にしてきたし、人にも説いてきた。
しかし、「かしもの・かりものの理」と向き合うときに、なぜ①もセットになっているのか。②と③の説明だけでは駄目なのか。
現に、かしもの・かりものの理を話する際に、②と③の説き分けだけになっていることが、ままある。
①〜③をそれぞれ単体で考えれば、頭では理解できる。しかし、①だけが少し浮いているように感じてしまう。
言葉で説明するのが難しいのだが、なぜかすっきりしない感覚が長年胸の奥でつかえていた。
太陽を拝む
話は変わるが、先月岡山市にある黒住教本部の神道山を参拝してきた。ここ2〜3年、ひょんなことから、黒住教の要職の方とご縁があり、繁藤にお越しいただいたり、おぢばも二度ほど案内をさせてもらっていた。このたびはご招待をいただき、初めての参詣となった。
黒住教では毎朝、日の出の太陽を拝む「日拝」を行っている。せっかくならと、早起きして朝5時ごろに神道山へ赴いた。
日拝とは、日の出の太陽を呑み込む思いで「御陽気をいただきて下腹におさめ天地とともに気を養う」というものだ。( 黒住教ホームページ参照 )
その日、とても美しい日の出を拝むことができ、心が洗われるような感動を得られた。

ふいに、昔のことを思い出した。天理の教会本部で勤務している頃である。
私はいつも朝づとめの後に東礼拝場の濡れ縁から、朝日を浴びながらお日様に手を合わせていた。太陽を拝む習慣は天理教にはないが、目の当たりに仰ぐ月日こそ親神の天にての姿であると教えられている。
ただ、そんな崇高なことを考えて実践していたわけでなく、無心になって朝日を浴び、自然に溶け込む感じが心地よかったからだ。
余談ではあるが、セロトニンという幸せホルモンをご存知だろうか。精神を安定させ、ストレスを軽減する効果があるものだ。特に効果的なのが日光を浴びることである。他にも、一定のリズムで同じ動作を繰り返すことも、セロトニンの分泌が促進される。
まさに朝夕のおつとめは、医学的にも心身に非常によい影響をもたらすものだといえるだろう。

「しぜん」と「じねん」
閑話休題、「この世は神の身体」についてだ。この世は親神様の懐住まいとも表現される。
科学技術が進み、環境問題が叫ばれるようになって久しいが、日常的にこんなメッセージにふれることが多い。
人と自然が共存する世界を・・・
当たり前すぎで気に留めることもないが、このメッセージの奥底に含まれているのは、「人間と自然は別物である」という概念である。
ここで一つ、教祖の口伝を紹介したい。
教祖は、
「この道は、人間心でいける道やない。天然自然に成り立つ道や。」
と、慶応二、三年頃、いつもお話しになっていた。
教祖伝逸話篇 一七 天然自然
慶応二、三年頃というと、ちょうどおつとめをお教えくださった時期である。その中でも、「自然」というワードに着目したい。
現代辞書によると自然とは、山や川、草、木など、人間と人間の手の加わったものを除いた、この世のあらゆるものを意味する。
しかし、教祖御在世当時の「自然」という言葉の捉え方・概念は、今と違ったものではないだろうか。

自然について思案するとき、コロナ禍の頃に行われたあるシンポジウム [※1]での議論を思い出した。哲学者の内山 節 氏の興味深い発言である。
古来、大和言葉[※2]に「自然」という言葉はなく、これは中国から輸入されたものである。そしてその読み方は「しぜん」ではなく「じねん」であった。
その「じねん」は「自ずから」という意味である。使い方としては「自然な成り行き」とか「自然に目が覚める」というようなニュアンスで、形容詞もしくは副詞として使われる言葉であった。
現在の意味、名詞としての「自然」は明治以降の概念である。ようするにNature(ネイチャー)を当てはめた翻訳語である。ちなみにNatureをどう訳すかというときにいくつかの候補があり、それは天然、天地、森羅万象という言葉であった。
※1
しぜん いのり いのち ~哲学者・思想家・僧侶・山伏の対話~
※2 大和言葉
漢語や外来語が入る前から日本語にあった言葉
分かりきることのできない森羅万象
驚くべきことは昔の日本において、人間と自然を別物の客観的対象として切り離して捉える概念がなかったということである。もっというと、科学的に自然を観察し理解しようとしたり、コントロールしようという発想自体がなかったのだ。
なぜならば、自分自身は自然との関係の中で”自ずから”出来上がっている人間であり、また自然の側も人間との関係の中で”自ずから”現れてくる現象であったからだ。
それぞれ独立した事物というよりも、その関係こそが本質であった。人間の身体も自然物であり、山川草木や虫鳥畜類と同列に、関係性の中に溶け込んでいるものであった。そもそも人間と自然をわける必要がないのだ。

明治以降、Natureという言葉に代表される西洋的な思想が浸透し、文明の発達も相まって科学的かつ唯物論的[※3]に自然を理解・支配しようとする営みが拡大してきた。
自然の関係の中にあるはずの人間生活は、コントロール可能な人工的空間・事象の割合が大きくなり、いつしか自然は人間と切り離されたものとなってしまったのだ。
しかし、どれだけ科学が発達しようとも、森羅万象のすべてを分かりきることはない。むしろ、分からないことだらけの自然の中で生きていることを思い知らされる。
そう考えると、人間と自然は切り離して考えるものでもなければ、二項対立の関係性でもない。これらを人間には到底分からないものとして受け入れたときこそ、親神様の懐住まいの中で、天然自然に成り立つ神秘を感じることができる。
「自然」という言葉一つとっても、その捉え方や本質は時代によって異なることに、あらためて気づかされた。
※3 唯物論
世界を構築しているものの根源は「物質」であるという考え方

神にもたれ、神を知る
結びに、教祖の口伝を紹介したい。
地球は、人間の体の如くや。金類の出るは、人間の身にすれば、爪や。温泉といふは、キウショのやうなもの、草木は毛の如く、水道は血のすぢやで。おなじ理やで。
正文遺韻(諸井政一 著)
金類・・・金属に同じ
キウショ・・・急所
すぢ・・・筋
かしもの・かりものの世界を表す、なんとダイナミズム[※4]あふれる表現だろうか。
かしもの・かりものの理は、単に身体をお借りしていることへの感謝だけにとどまらない。
人間と自然という至妙な関係性の中で、神の懐に包まれている親心を味わい、心身ともに神にもたれることによって、かしもの・かりものの理を”知る”という境地につながるのではないだろうか。
※4 ダイナミズム
内に秘めた力強いエネルギー。動的なさま。

朝のおつとめで、
朝日を拝むように、
希望を胸に新しい一日をむかえる。
夕のおつとめで、
花鳥風月を味わい、
湧き出る感謝とともに一日を終える。
かしもの・かりものの世界に浴し、そんな毎日を送ることができれば、どんなに素晴らしいだろうか。
このたび、コラムに理の思案をまとめることによって、冒頭の私の胸のつかえはだいぶ取れたように感じる。
内容の多くが抽象的な悟りであり、また文筆力が足らず分かりずらいことだらけであっただろうが、どうか上手に受け取っていただき、私の思案が少しでも皆様の日常の糧になることを願いたい。
立教188年5月1日
天理教繁藤大教会長
坂 本 輝 男

読んで良かったと思ったら「スキ」押してね♪
会長ブログにコメント機能を追加しました。ぜひご感想をお寄せください
天理教繁藤大教会の公式LINEに友達登録してもらうと神殿講話・過去動画の配信やブログなどを定期的に届けします♪
-1024x1024.jpg)
-1024x1024.jpg)