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人は鏡 〜宗教者の役割は人を裁くことではない〜(繁藤月報-巻頭言 2025.2)


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尽きない悩みと仲裁役

悩みというものは尽きないものだ。しかも複数の問題がこんがらがった状態であることが多い。

他人からすると「なんだそんなことか」と思うようなことでも、当事者からしたら寝ても覚めても頭から離れず、心を締め付けるものかもしれない。

め事の仲裁役ちゅうさいやくともなると、さらに気を揉むことになる。

「こんな酷いことをされた。たすけてほしい」

「先にあいつがやったんだ。悪いのはあっちだろ?」

「あなたは私の味方でしょ?」

揉め事の間に入って、よくよく話を聞くと、双方に事情があり言い分がある。

そこには別々の物差しがあり、正義がある。それらが簡単に交わることはない。

夫婦、親子、親戚、職場、学校、ご近所さん。

はたまた国家や民族、宗教、政治やイデオロギー [※1] など大きな枠組みでも、その構造は同じように思う。

あちらを立てたら、こちらが立たず。混じり合うことのない水と油のよう。一度壊れた人間関係を修復するのは容易ではない。

相手の悩みに共感し寄り添う。アドバイスを伝える。何らかの援助をする。世話をして仲をとりもつ。はっきり白黒をつけてさばく。

相談役や仲裁役として、できることはいろいろあるだろう。

ただ、本当に手助けをするのであれば他人事では済まない。「悩み」の渦中かちゅうに入り込むことになる。相談者の問題課題(悩み)がどうしたら解決できるのかという、新たな「悩み」を背負うのだ。

そうやって、いつの時代もどんな場所でも、やはり人間の悩みは尽きることがない。

[※1] イデオロギー
個人または社会集団によって共有される思想や価値観

人は鏡

「他人は自分を映し出す鏡」という。

「人のふり見て我がふり直せ」という意味にもとれるが、今回の文脈ぶんみゃくでいうと「他人というものは、自分の心の状況を映し出す鏡である」という考え方である。

例えば、「自分を大事に思ってほしいならば、まず相手を大事にすること」ということだ。相手の言動は、自分の内面をそのまま映す鏡となる。

また、相手に腹が立ったり憎んだりとネガティブな感情を持ったとしたら、それはもしかしたら自分も持っているくせ性分しょうぶんなのかもしれない。

他者を鏡のようにして、あなたの内面の嫌な部分が映っているということになる。

「鏡(かがみ)」の中から「我(が)」を取り去ると、残るのは「神(かみ)」になる。

神道しんとうにはこういう言葉がある。なるほど。自分の悩みや苦しみと本当の意味で向き合うための考え方の一助になるかもしれない。

鏡のごとく映るなり

お道を信仰する者として、親神様の教えをもとにどう考えるべきなのだろか。

みなせかいのむねのうち かゞみのごとくにうつるなり

みかぐらうた 六下り目三ツ

世界中すべての人の心の内は、合わせ鏡にものが映るように、裏も表も親神様の目にはみな見えるのである。という解釈である。また、

世上が鏡、いかなるもかりもの、心我がもの、心通り鏡に映してある。

おさしづ M21.7.29

というおさしづもある。それぞれの心通りに世上(出来事や周りの人)を鏡として映している。と解釈できるのではないか。

天理に適う心でさえ通っているなら心配はないが、人間の心には弱さがある。我が身かわいい、我が身勝手な「我」もある。

そんな人間の天理に沿わない「ほこりの心」「心得違こころえちがい」に対して、親神様は陽気ぐらしに導くことを目的とし、関与する者の心の切り替えを促すために、病気やトラブルといった「ふし(契機けいき)」をあらわされる。

お見せいただく事柄は、すべて心が映ったものである。

寒空の中、梅の蕾が膨らみだした

もっと踏み込んでいうと、出来事はただの事象じしょうでしかない。出来事に対し、心が「困りごと」と認識して初めて「悩み」となる。

具体的な例を出そう。どうしても許せない人がいる。その人にされたこと、言われたことが許せない。誰が見ても酷いということもあるだろう。

しかし問題の本質は起こった出来事にあるではない。あなたの心の中にあるどうしても許せないという「苦しさ」が本当の問題なのだ。執着なのか、エゴ [※2] なのか、心の器なのか、いんねんなのか。相手という鏡を通してこそ、自分の「」と向き合うことができる。

悩みというものは、すべて鏡のように自分の心が映ったものだと考えてはどうだろうか。

心の矢印が相手ではなく、自分に少し向くはずだ。相手や世上といった鏡を通して、自分の深い内面と向き合う。天理の教えをもとに、心を澄まし、親神様の思召に自分の心のチューニングを合わせていく。そうやって我を取っていくのだ。

[※2] エゴ
自分の利益を中心に考え、他人のことは考えない立場

繁藤に流れる澄んだ川

そして同時に気づいたことがある。それは、お道のようぼくに求められるのは問題解決だけではないということだ。

本当に困っているのは誰なのか。

その問題の奥にひそむ「困りごと=悩み」は何なのか。

表面上の問題ではなく、困っている人の悩みの本質にこそ神意が込められているのかもしれない。

相談役や仲裁役の立場になると、ついつい相手を裁いたり、正論を押し付けることをしてしまいがちだ。しかし、本当に向き合うべきは「悩み」の根っこにある親神様の思召おぼしめし(期待)を相談者とともに掘り下げていき、心を切り替えていく伴走役ばんそうやくをすることが我々ようぼくの役目ではないだろうか。

言うはやすく行うはかたし。

おたすけ、おたすけと叫ばれる今の時旬にこそ、「本当のたすかりとは何か」という核心に向き合い続けたいと思う。

  立教188年2月1日
    天理教繁藤大教会長
          坂 本 輝 男あきお

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