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――病のもとは心から。
天理教ではこう教えられる。本当にその通りだと思う。しかし、その心が病気になってしまったらどう考えたらいいのだろうか。このテーマをずっと考えてきた。その「答え」を見い出したとはまだまだいえないものの、現時点での私の考えをおこがましくもまとめてみたいと思う。
目に見えない心の病気
あなたの近くに「心の病気(精神疾患)」を患っている方はいるだろうか。少なくても知り合いに一人はいる、もしくは関わったことがあるという方がほとんどなはずだ。もし一人もいないという方は、言い方が悪いが、そのことに気づいてないだけかもしれない。
日本国内において、心の病気で病院に通院や入院をしている人たちは約615万人にのぼる。(2023年厚生労働省「厚生労働白書」)
今や4人に1人が生涯のうちに何らかの精神疾患を経験するとまでいわれてる。心の病気は特別な人がなるものではなく、私もあなたも病む可能性があるのだ。
心の病気の原因は複雑だ。その原因は、ストレスなどが積み重なる『心因性』、人の性格や気質がもととなる『内因性』、そして身体的な病気や薬物など外部からの影響が原因となる『外因性』の3つに分類されるという。
また、心の病気と一言でいっても、うつ病や統合失調症、パニック障害や境界性パーソナリティ障害、依存症や摂食障害など、その分類は多岐にわたり、併発・併存することも往々にしてある。医者でも病気の判別が難しい場合も多く、どのような治療法が好ましいかは個人によって異なる。
何より、心という目に見えない部分の疾患であるだけに、当事者の苦しみを周りに気づいてもらえなかったり、理解されないことが多くある。
先日、おぢばで開催されたひのきしんスクール「精神の疾患と障害~統合失調症~」を受講した。また、今までに必要にかられて様々な書籍も読んできた。そのたびに正しい知識をもとに、心の病気の理解を深めることは本当に大切だと実感する。ただし、それだけでは足りない。
これまで私自身、いろいろな心の病気を抱えておられる方と関わってきた。そのたびに何とかたすかってもらいたいと寄り添うが、簡単に願い通りにはいかない。むしろ自分の至らなさ、無力さを痛感することの方が多かった。そもそも心の病気が治る、心がたすかるとはどういうことなのだろうか。この点について、もう少し考えを深めてみたい。
回復は手段であって目的ではない
まず始めに「回復」という言葉が頭に浮かぶ。意味は、悪い状態になったものが、もとの状態に戻ることをさす。例えば、風邪をひいたときに「体調が回復する」という表現をする。ただし、心の病気においては回復という言葉は安易に使うべきではないと私は考える。なぜ心が病んでしまったのかという本質と向き合ったとき、単純に病気になる前に戻ればそれで良いとは一概にいえないからだ。
具体的な実体験をあげてみたい。
私はこれまで数名のアルコール依存症の方と関わったことがある。アルコール依存症というと、酒に溺れる「だらしない人」というイメージを抱くかもしれない。実際はむしろその逆で、人一倍真面目くらいの人ばかりだった。よくよく話を聴き、なぜ依存状態まで陥ったのか、その根っこを掘り下げていくと、好きでアルコールに依存しているわけではないということに気がついた。
わけがあって飲んだ、生きづらさがあって飲んだのだ。生きづらさを紛らわしながら、この世界との間にアルコールというクッションをつくりながら、世界と折り合おうとした。つらくても、そうまでして頑張った結果だったのだ。むろん、これはあくまで私の経験則(※1)であり、すべての人に当てはまるということではない。しかし、これが真実だった。
(※1)
実際に経験された事柄から見いだされる法則のこと
心の病気になったとき、社会に望まれる回復とは「再適応」に他ならない。型が決まっている。もちろん、それが当人にとっての最終目標であるならば異論はない。ただし、身体的なコンディションの向上を求めていくことは必要だが、心はどうだろう。苦しかったころにまた帰りたいだろうか。
そもそも、
なぜ布団から出られなくなったのか。
なぜイライラが抑えられずトラブルを起こしてしまうのか。
なぜ自律神経が不調になってしまったのか。
精神疾患やそれに伴う身体的異変は「心のSOS」のサインだといわれる。心の病気になる前というのは、ストレスや生きづらさといった「病気の種」がある状態で、不安定で危ういところがあるといえるだろう。
日本を代表する精神科医である中井久夫氏は、精神疾患についてこう述べている。
「(精神疾患が)治るとは病気の前よりもよくなることだと私は思います。見栄は二の次で、病気の前よりも安定してゆとりのある状態になることです。それが精神科のむずかしさでもあり、やりがいでもあります。」
中井久夫著 「こんなとき私はどうしてきたか」
何をもって心の病気が治ったというのか。そしてどういう状態を目指していけばいいのか。当事者もしくはその家族に対して、そのことを安易な固定観念で押し付けてはならない。もう一度いう、回復はあくまで手段である。本当に欲しかったものは、「幸せ」だったはずなのだ。
それでも、病のもとは心から
天理教少年会の3つの約束の一番目には「生きる喜びを味わいます」とある。とても素敵な標語だ。その喜びはお金やモノというよりも、もっとシンプルなことではないだろうか。
朝イチのお味噌汁が美味しいこと。
話を聴いてくれる人が隣にいること。
お風呂に入って一日の疲れが癒されること。
生きる喜びは「身体と心」その両方で味わうものだ。そして自分一人だけでなく周りの人とともに味わうことができれば、こんなに素晴らしいことはない。しかし、身体もしくは心が病気になってしまうと、途端に「生きる喜び」を感じられなくなる。周りの人に気をつかうどころではなくなり、自分のことしか考えられなくなる。
親神様は人間に罰を与えようとか、苦しめようとして病気にさせるのではない。その根源には、その病気という事柄をとおして陽気ぐらし(幸せ)に導きたいという親神様の願いがある。だから、病気がもとの通りに回復することが本当のたすかりではない。病気を通して、陽気ぐらしに近づくことが本当の目的なのだ。もっというと、病気前より病気後のほうが心が成人(※2)し、幸せになっていくことが理想なのだ。
そのためには、心のほこりを払うこと、徳を積むこと、いんねんを納消すること、いろいろとあるが本当のたすかりとは、シンプルに「人をたすける心」へ切り替わっていくことだと、私は思う。「病のもとは心から」と教えられるように、身体の病気であろうが、心の病気であろうが、向き合うべき本質はやはり心の切り替えなのだ。
(※2)
天理教の教えをもとに心を磨いていくこと
最後に ~繁藤が目指す教会の姿~
繁藤大教会では「生きる喜びを味わう」そんな心を取り戻すことができる居場所づくりを求めている。
先日も生きづらさを感じ苦しんでいた方がしばらく繁藤に滞在された。最初は不安ばかりでどうなることかと心配したが、教会を離れる頃にはびっくりするほど素敵な笑顔がでるようになった。
繁藤は本当に田舎で何もないところだといわれる。しかし本当にそうなのだろうか。実は、「生きる喜び」が溢れていることに気づく心が足りないだけなのかもしれない。
花鳥風月に包まれた安らぎの居場所で、心の豊かさを育む。これが繁藤大教会の目指している教会の姿である。
環境を変えて疲れた心をゆっくり休める居場所がほしい。忙しい毎日から離れ、本当に大切なものと向き合う「心の修養」がしたい。そんなニーズをお持ちの方がおられましたら、中長期的な滞在も受け入れていますので、まずはお気軽にご連絡ください。
立教187年12月1日
天理教繁藤大教会長
坂 本 輝 男
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