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先日、巡教先の街で見たこのポスター。未だにお札を崩すのを躊躇してしまう癖がある私にとって、なんとも共感できる俳句だった。新札の中でも特に福沢諭吉、もとい渋沢栄一のお札なら尚更だ。
新紙幣が発行されると話題になった頃、購入したが読まずにいた本があった。そう、渋沢栄一の代表作「論語と算盤」である。
新しい一万円札がたくさん懐に入ってくるようになるためにも、せめてお札の顔になった人の本だけでも読んでおこうという魂胆だ。
しかし、私にとっては少々読みにくく、やむなく積読になってしまっていた。このたびの波長の合う俳句に触れて、改めてこの本を手にとってみた。
論語と算盤
渋沢栄一は近代本経済の父と呼ばれ、明治から大正にかけて日本の経済発展の土台を築いた偉人である。書籍の内容も素晴らしいが、何のためにこの本が書かれたのかが大変興味深かった。
江戸時代以来、道徳教育を受けていたのは武士層であり、農工商にはそれが乏しかった。そのため、彼が関わる商業界は、収益だけが目的の拝金主義 [※1] が色濃く広がっていた。
一方、武士層は商業を蔑視し、道徳のための道徳教育というような現実とかけ離れた、実際の役に立たない理論だけが先に立ってしまっている。
経済の発展なくして国の発展はないが、かといって道徳の欠けたお金だけ求める利己主義が進んではならない。そこで商業と道徳の接着剤なればという願いで、渋沢栄一が書いたのがこの「論語と算盤」であった。
[※1] 拝金主義
金銭を最上のものとしてあがめる考え方。より多く儲けることを考え、金をため込もうとする態度。
お前には信仰がない
この本に触れて、昔あることに葛藤していたことを思い出した。
当時から私は合理的な考えを好むタイプで、生意気にこんなことを考えていた。
―― お道の教会には経営的視点が足らない。
ここでいう経営的視点とは、マネジメント、マーケティング、会計など一般企業が経営において重要視しているノウハウや論理的思考のことである。以前から私はこれらを求めて学んできたが、ときには「お前は信仰がない」と叱られてしまうこともあった。
あるとき、師匠と仰ぐお道の先輩にこのことを嘆いたところ、
「確かにお前の言う通り、お道にはそういうものが足りないかもしれない。ただ、お前のいう経営的・合理的なアプローチの行き着く先が、我々の目的地に向かう『本当の近道』なのか。親神様の目からみたらどうなんだろうか。」
との問いを与えられ、ハッとさせられた。
考えてみれば、経営的視点といえど、松下幸之助や稲盛和夫などの偉大なる経営者の思想は、合理的な部分を越えて、宗教に近いものがあるように感じる。
未熟な私が持ち合わせている視点やモノサシは、親神様の思召、つまり天の理からすると甚だ近視眼的 [※2] なものかもしれない。
[※2] 近視眼的
目先のことにばかり囚われて、将来や大局などを洞察する能力が欠如している様子。
合理性と神秘性
お道では「二つ一つの理」という言葉がある。その意味の一つは、相対する二つの要因が、互いに補足し合い、ともに他を成り立たせる働きかけにおいて自らの存在を得ているという存在の関係構造を指す。例えば、「天と地」や、「理と情」などである。
目に見えない世界に意識を向ける宗教的な「神秘性」 [※3] と、経営的視点といった「合理性」。
これもある意味で相対する関係であり「二つ一つの理」に近しいといえるのではないだろうか。
(これはあくまで私のおこがましい悟り・仮説なので、異論や批判があれば真摯にお受けする。)
これまでこの二つは、真逆のことで混ざることのなくぶつかるものだと捉えていた。しかし、二者択一しなければならないということではなく、両方が補い合うという関係性にもなりうるかもしれない。
[※3] 神秘性
人間の知恵では計り知れない不思議なこと。普通の認識や理論を超えたこと。
あほうは神ののぞみ
私自身、現実に教会長として、ようぼくとして、この二つの間で悩むことばかりだ。
お金は大事だし、お金に関わらず打算的な人間思案がついつい浮かんでしまう。しかし、毎日拝読している「信者の栞」にはこう書かれている。
親神様の御守護で、人間身の内は、自由自在がかないます。又食い物、着物、住む家も、皆親神様の御守護で出来るのであります。そしてめいめいの心の理に、与えて下さるのであります。
信者の栞(かしもの・かりもの)
モノやお金、ひいては家族や友人など周りの人間関係も、一人ひとりの「心通り」に親神様がちょうど良いようにお与えくださっている。
「俺が、俺が」という我の心や、人間思案を手放していった先に、「あほうは神ののぞみ」と教えられる境地がある。簡単なことではないが、信仰に向き合うということはこの葛藤・思案の繰り返しなのだ。これからも大いに悩み、皆さんと練り合いを重ねながら、少しでも親神様にお喜びいただける道を模索していきたい。
かく偉そうに語ったが、まだまだ未熟な私。新札だろうが、万札だろうが、出し惜しみの心がなくなるまでの道のりはまだまだ長そうだ。
立教187年10月1日
天理教繁藤大教会長
坂 本 輝 男
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