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身につけるより手放そう 〜アンラーニングと信仰〜(繁藤月報-巻頭言 2023.6)

「なんでお父さんは会長さんなが?」
最近、5歳になる娘から何気なく問いかけられました。いくらでも答えることはできますが、いざここまでストレートに聞かれるとどう返答しようか、一旦考えを巡らせました。

2~6歳の子どもには「なぜなぜ期」(心理学では質問期)というのがあるみたいです。

あぁ、うちの娘も完全にそれだ・・・と思いながら、余裕のあるときはしっかり向き合いますが、忙しいときはどうしても適当な返事になっちゃいます。

人は成長するにしたがって、常識を学んでいくと同時に、大なり小なり「こうあるべき」とか「しなければならない」といった価値観や固定観念が醸成されていくものです。

しかし幼い子どもは、物事にとらわれない素直で純真な心を持っています。そのような心のあり方をお道では「三才心」といったりしますが、先述した娘の質問も、そんな三才心から出てくるドキッとさせられる本質的な問いかけでありました。

最近、AIや分断といったキーワードが飛び交い、答えのない時代をどう生きていくかが問われている中、「アンラーニング」という言葉・概念に注目が集まっています。

アンラーニングとは、自分が身につけてきた価値観や常識などをいったん捨て去り、あらためて根本から問い直し、そのうえで新たな学びに取り組み、すべてを組み替えるというものです。「学習棄却」や「学びほぐし」などとも呼ばれます。

恐れずに私なりにもっとシンプルな表現に言い変えると、

偉い人や親が言ったことでも必ずしも正しいとは限らない。また、ある時代のある場所では正しくても、よそでは通用しないかもしれない。

だから、誰かが言ったとことをそのまま鵜呑みにするのではなく、本質的な問いを立てる。自分の頭で深く考え、自分の心で感じ気づく。自ら手を動かし行動し、身体全体をつかって自分の道を歩んでいくことが大事であり、その繰り返しこそがアンラーニングだということです。

でも、これって結構難しいことです。何が正解なんか分からないわけだし、責任は自分で取らないといけない。

お道で「八つのほこり」と教えられる我さえよくばという自分勝手な心を使ってしまうこともあるでしょう。また、つい世間の常識にとらわれて、天の定規(親神様の思召、天の理)からズレた考え方(人間思案)をしてしまうこともあると思います。

おふでさきに、


    にち/\にすむしわかりしむねのうち
    せゑぢんしたいみへてくるぞや

おふでさき(六号十五)

とあります。諭達にも「成人」という言葉がでてきますが、これらは心の成人を指しており、信仰的な成長のことを意味します。

では、「信仰的な成長とはなんなのか?」と問うと、それこそアンラーニングに近いプロセスがあるのではないかと最近私は思うのです。

言い換えると、身につけるよりも、まずは手放すことが大切ではないかということです。

自分を見つめ直し、教えをもとに、心の切り替えをしていく。心が澄み、親神様の思召・親心が噛み締められるようになっていけば、その先に広がる世界、見えてくる世界が変わってくる。このおふでさきは、そうお示しいただいてるのではないでしょうか。

さて、今年のはじめに大教会において、「教化育成部」を立ち上げました。教化とは、教えにもとづいて、人々を信仰や望ましい方向へ導くことをいいます。

宗教における教化育成こそアンラーニングという営みであると言えるかもしれません。今後、教化育成部を中心に、大教会でもそういった信仰を見つめ直すきっかけとなる場を提供していきたいと考えています。

自然あふれる繁藤の環境はそういう心の修養にぴったりの場所です。目指すは現代的にいうと「リトリート」の場です。(カッコつけすぎと思われそうなので、この言葉の意味は述べません。興味のある方は調べてみてください。笑)

最後に、翻って私自身を見つめ直すと、手放さないといけないものでいっぱいで、まだまだ成人の道のりは長そうです。手放すって大変です。なぜなら苦しさを伴うからです。

しかし信仰を深めることをアンラーニングと捉えると、深い問いの先にある気づきには、目の前の世界を全く違うものに変えてくれるような面白さや喜びがあるのかもしれません。

冒頭の娘の質問に対し、もし皆さんが同じように「なんで信仰してるの?」と問われたら、どう答えますか?

「そりゃ信仰が楽しいからやで」

と瞬時に心から言える、そんな信仰を掴んでいきたいものです。

  立教百八十六年六月一日
    天理教繁藤大教会長
          坂 本 輝 男

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